MIWARA BIOGRAPHY "VIRTUE KIDS" Virtue is what a Japanized ked quite simply has, painlessly, as a birthright.

後裔記と然修録

ミワラ〈美童〉たちの日記と学習帳

一学 6【自己疎外を反省して学問へ。我は何かを問うて格物へ】学徒、オオカミ

令和2年3月8日号 (No.6)


一つ学ぶ。

ある日のことを書く。
在宅座学が始まった。

「これも、時代だな」と、塾師が言った。
その日の塾師は、門人ワタテツさんだった。
後から聞いた話だが、在宅座学を提唱したのは、意外にも、学人ムローだったそうだ。
学問のためなら、バサッとすべてを、根底から変えてしまう。

「学人の域に達すれば、きっと、老いなど無縁なんだろうな」と。
これも、ワタテツさん。
ひとりごちたようなその言の葉が、不思議とハッキリ、くっきりと、おれの耳に届いた。
おれも、そう思う。

きっとムローは、在宅座学で心を開いた電脳学徒たちを、どこか海の見える空き家でも借りて、彼ら彼女たちをそこに集めて、また昔ながらの、活きた生(せい)の座学をやろうとしているのではないか。
そてはまさに、テーゼ。
彼ら彼女たちにとって、人生初の命題。

で、その在宅座学。

塾師の講釈は、声から活字へと形を変える。
在宅学徒一人ひとりに配信、これが基本である。
送り先は、彼ら彼女たちの電脳住所。
彼ら彼女たちは、在宅の住所を明かさない。

次に、応用というか、例外というか。
その電脳住所すら、明かさない輩(やから)がいる。
「発信はするが、受信は御免蒙(こうむ)る」と、いうことか。
どうなんだかッ!
そんな輩に対しては、
「WEBLOGに載っけとくから、勝手に読め!」と、相成る。
それも、どうなんだかッ!

これが、世に言う自修塾。
命名は、学人ムロー。
当座、従来の寺学舎も存続。
自修塾の講釈原稿は、ムローが草稿。
これを、ワタテツが推敲(すいこう)。
それを、寺学舎の学徒らが、それなりに校正。
そして、配信。
或いは、アップロード。

後から聞いた話を、もう一つ。
ワタテツさんが、推敲を担当することになった経緯(いきさつ)。
「学問を修(おさ)めるのではない。自分を修めるために、学問をするのだ」と言って、ムローはワタテツさんに、推敲を託した。
更(さら)にムローは、
「命じると、自分から離れてしまう。我が事(こと)ではなくなってしまう。だから、託すのだ」
と、ワタテツさんに言い足したという。

だからおれも、自分の言葉で書く。
「講釈文をコピーして貼り付けるようなことはしない。
それがたとえ数秒だとしても、無駄な時間に変わりはない。
他人の言葉ではなく、自分の言葉で書く。
自分を修めるために」
これが、だからの意味だ。

それは、ある日のことだった。
寺学舎、座学の場面。
座学は、11分ごとに、休息が入る。
なぜか。
塾師に訊(き)いた。
知らなかった。
後日、調べて教えてくれた。

人間が、同じ姿勢で同じことに集中できる忍耐力は、たったの11分しかもたない。
アメリカの心理学者の論。
信頼できる分析心理学か、はたまた、机上の空論か。
そこいらあたりは、不明。
その説によると、人間は、同じことに集中しているようで、11分を経過すると、タバコを吸いたくなったり、お茶を飲んだり、体を左右によじったり、ついには立ったり座ったりするそうだ。

座学11分の後の休息......所謂(いわゆる)一つの、厠(かわや)休憩である。
その厠休憩中に、誰が誰にともなく雑談が飛び交うなか、突如、ワタテツさんが叫んだ。

「エヨリヨネイト!」
「エストレインジ!」
「ショーフ!」

黒板の上を、白いチョークが走る。

Alienate !
Estrange !
Shelve !

チョークが、折れる。

「おまえらは、己を疎外している」
「おまえらは、自分自身を疎遠にしている」
「おまえらは、自分の問題棚上げにしている」

飛び交った言の葉のどれか、或いはそのすべてが、ワタテツさんの気に障(さわ)ったのだ。

「そんなおまえらが、どこからどうやって、学問に切り込もうと言うのだ。
ズバリ、無理。
ムリだろッ!」

あえなく、厠休憩は終了。
ワタテツさんの講釈、再開。
無論、テーマは一変。

「外からの刺激が、多すぎるんだろうな。
しかも、あの手この手で、興味を引こうとしてくる。
結果、とかく外へばかり思いを馳せ、内にある己の心を忘れてしまう。

外のもの......欲望の対象、或いは、不満の対象ばかりを主題にして、自分自身を省(かえり)みない。
挙げ句、わけがわからなくなる。
矛盾や悩みが、限りなく生ずる。
これを、忙しいと言う。

立心偏(りっしんべん)に、亡くなると書く。
亡くなるという字は、亡(ほろ)ぶとも読む。
つまり、外のものごとばかりに気を取られていると、せっかく立った己の心が、亡んでしまうということだ。

学問然(しか)り。
学問も、忙しい。
知識に技術、おまけに雑学の数々。
自分自身を省みることもなく、自己修練はどこへやらだ。

人間というものは、常に満腹でいると、どんな高級料理を出されても、美味(うま)いとは感じなくなる。
オマケに、暴飲暴食が続くと、病気になる。
挙げ句、肉体は亡ぶ。
結果、心も肉体も、亡んでしまう。
雑食多食が肉体を亡ぼし、雑学多学が心を亡ぼす。

美味しいものを探し求めて、食べ続けることが美食か。
或いは、腹を減らすのが本当か。
様々な知識を探し求めて、雑駁(ざつばく)な勉強を続けることが学問か。
それとも、知識欲を旺盛にするのが本筋か。

どちらも、大切な問題だ。

知命に先立ち、君ら同様、わたしも、新たな、自分で決めた名前を持った。
ほどなく知命して、念願の旅に出た。

その旅の途中、神社の境内(けいだい)で休んでいると、見知らぬ老人と世間話になった。
直(じき)に、話は尽きた。

しばらくすると、老人が言った。
『時に貴方(あなた)は、どなたですか?』
『ワタテツと申します』
『左様ですか』

またしばらくすると、その老人、こんどは叫んだ。
『ワタテツ!』
『はい?』
『それは、何か』

おれは、ぐっと詰まった。
自分が何かも、わからない。
自己疎外の、果てだ。

しばらくして、こんどは、わたしが老人に訊(たず)ねた。
『失礼ですが、貴方は、どなたですか?』
『セイイチと申す。せい爺(じい)と呼ばれておる』」

折れて半分になったチョークが、また黒板の上を走る。

精一
惟精惟一

「『それは、何か』とは、さすがに訊(き)けなかったが、老人は、応(こた)えて教えてくれた。

セイイチ......つまり、
これせい、これいつ。
精(せい)とは、純化(じゅんか)すること。
一(いつ)とは、雑駁として分散しているものを統一すること。
つまり、知り得たいろんな知識を雑学で終わらせないで、品性(ひんしょう)を練り上げ、一貫、一本の筋が通ったものにする。

『それが、わしじゃ。』
そう言って、老人は立ち上がった。
歩き始めると、何かを思い出したように振り返り、そして、こう言った。

『俗に、臍(へそ)から上を人格、臍から下を品行などと申す。
本当は、人格が良くなれば、品行も良くならねばならんはずなんじゃがな。
それを、格物(かくぶつ)と申す。
物を、格(ただ)す。
己の心に内在するもの、思いや考えを修正して、正してゆくことじゃ』」

ここで、その日の座学、ある日のことが終わった。


◎今日の録責(ろくせき)
◯学徒、オオカミ

◎息恒循(そっこうじゅん)こぼれ話
息恒循の知命の中に、次のような言の葉を見つけることができる。

良知に到るまで
格物に悖(もと)るな
良し