MIWARA BIOGRAPHY "VIRTUE KIDS" Virtue is what a Japanized ked quite simply has, painlessly, as a birthright.

東亜学纂学級文庫

『息恒循』を学ぶ

一学83 ミワラ<美童>の然修録 R3.5.8(土) 朝7時

#### 一学ワタテツ「哲学的に{捉|とら}えると{莫|まく}妄想、科学的捉えると創造力」然修録 ####

 莫妄想は、*左脳を整理*し、学問を積む準備運動となる。但し、学問をいくら積んでも、悩みは尽きない。*自分で*、どうにかせねば! 己の体験で得たイメージを活用して、創造力を養い、*右脳を鍛えよ*!
   門人学年 ワタテツ 青循令{猛牛|もうぎゅう}

 一つ、学ぶ。

 ヨッコからの「莫妄想について調べよ!」との指令……塾師を拝命する学年である我ら門人(ヨッコと俺)としては、「課題。莫妄想を自ら会得、実践によって体得せよ!」と、指令ではなく、課題を提示すべきところではなかったか。

 ……と、自ら捉え方を変えて、素直にヨッコの指令に応じてみた。その結果について、物語る。

   《 左脳を整理し、右脳を鍛える 》

 「莫妄想なら、禅宗のお寺に行けば、好きなだけ修行できるさァ♪」と、言われた。
 これが、指令に呼応して周囲の{先達|せんだつ}と{思|おぼ}しき人びとに問うてみて、一様に返ってきた答えを要約したものだ。
 禅は大乗仏教であるから、原始仏教の流れを{汲|く}む。莫妄想が、その禅の一環として修行されているということは、哲学として捉えられているということだ。

 ならば、学ぶ価値あり♪ ……なんだけれども、みんながみんな同じ捉え方をしたんじゃあ、芸がない。
 そこで、シントピックリーディングの目的が、頭に浮かぶ。一つの{主題|テーマ}を、様々な観点から捉えるために、多{類型|ジャンル}の本から同じ主題の{話題|トピック}を探し出して、読み比べる。
 禅という宗教の類型だけで莫妄想を捉えたならば、莫妄想の単一的な側面しか理解することができないのではないか。何か別の捉え方……別の観点から、莫妄想を捉える必要があるのではないかッ!

 ……と、そんな初動の{経緯|いきさつ}もあって、**科学的に**莫妄想を捉えてみることにした。
 莫妄想は、考えても仕方がない過去の事象を{棄|す}てるということ。それで残るのが、現在と未来。但し、現在は、無に等しい。過去に計画されて、今まさに瞬時に消え去るだけの、捉えようもない〈無〉に過ぎない。
 {即|すなわ}ち莫妄想とは、左脳が受け持つ雑多で{猥雑|わいざつ}な過去と現在を、整理整頓、片付け清掃、分別ゴミ出しをするということだ。これにより、左脳に集中力が生まれ、直観力を養う土壌が出来上がったことになる。

 と、言うことは……だ。
 残るは、未来。
 それを{捕|と}らえる能力が、創造力。鋭い直感力。本質を見抜く眼力……そう、洞察力という言葉が、頭に浮かんでくる。
 これら創造力、直感力、洞察力のすべてが、右脳が受け持つ能力だ。これを、宗教的に捉えてしまうと、神{憑|がか}り的とか、超能力とか、霊感とか、超常現象とか、そっち系の側面にのみ観点が{偏|かたよ}ってしまう。
 俺はべつに、アンチ宗教派でもなんでもないので、それはそれで肯定{吝|やぶさ}かではない。霊感とか超常現象は別にしても、原始仏教の哲学的な捉え方は、人生の随所で取り込んでいこうと思っている。
 ……が、前述の「芸がない」という意味で、それだけでは、どうも面白くない。それで、科学的に右脳を捉えてみることを、始めてみようと思う。なので、今回は、その「はしがき」とも言うべき内容となろう。

 科学的に捉えた学問を試み始める前に、なぜ原始仏教の哲学的な捉え方を併行して学び続けたいと思うのか。その点について、簡単に触れておく。

 {嘗|かつ}て二十世紀の天才的な物理学者たちは、よく「仏典」を読んでいたと言われている。その訳は、自己肯定……自分の仮説に自信を持つために、鋭い洞察力を持ったお釈迦様の教えが、大いに力になったからだと考えられている。

 人は、目前の問題を、自分一人で解決できないから、悩む。その能力が足りない未熟な理由、その根源のことを、「無明」という。お釈迦様は、世の人びとの無明を取り除き、自分で悩みを解消できるようにしてあげたいと、考えたわけだ。
 そのためには、先ずは自らが学ばなければならない。問題を解決するためには、学問が欠かせない。世界中に、お手本はいくらでもある。それを習うのが先決で、しかも早道だ。
 先人語録や{先達|せんだつ}から学ぶ……お釈迦様は、これを「{声聞道|しょうもんどう}」と呼んだ。

 でも実際のところ、この声聞道で解決できてしまうような悩みは、大した問題ではない。声聞道に努めたところで、種々雑多な悩みは、尽きない。となると、お手本も無く、先生も居ない{訳|わけ}だから、自分でどうにかするしかない。
 ここで、創造力とか、{新たな工夫|アイデア}とかいったものが、必要となってくる。但しこれは、声聞道のように学べば会得できるといった代物ではなく、いくら独りで大努力したって何も思いつかない場合もあるし、かと思えば、何かのご縁がきっかけで、ポッと何気に頭に浮かんでしまう場合だってある。
 ……という訳で、お釈迦様は、これを「{縁覚道|えんかくどう}」と呼んだ。

 前者「声聞道」が、学問を積むことだとすれば、後者「縁覚道」は、実体験によって得た{心の中に浮かんできた映像|イメージ}を、実践で**活用**する……と、いうことになろうか。
 この活用こそが創造力であり、正に右脳の活躍するところなのだ。

 はてさて、先人の語録を会得できれば学問と成り得るように、この創造力の訓練をすれば、その究極である洞察力を体得できるかというと、そう都合よくはいかない。
 それだけ右脳というのは、一筋縄ではいかぬ、{所謂|いわゆる}{曲者|くせもの}なのだッ!  

_/_/_/ 「後裔記」、「然修録」
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_/_/_/ 『亜種記』
Vol.1 [ ASIN:B08QGGPYJZ ]

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