#### 一学オオカミ「寛容の精神とは。真意を{汲|く}んで受け{継|つ}ぐ{曲者|くせもの}たち」{然修録|101} ####
『寛容の精神とは何か』 《曲者や{一廉|ひとかど}の武士が備えていた心構えと、その兵法の比較》《陽明学真意の世界への懸け橋となった佐藤一斉、その橋を護り{継|つ}いだ先人{先達|せんだつ}の{為政|いせい}の人たち》
学徒学年 オオカミ 少循令{石将|せきしょう}
一つ、学ぶ。
**{主題と題材と動機|モチーフ}**
《 {主題|テーマ} 》
寛容の精神とは何か。
《 その{題材|サブジェクト} 》
曲者や一廉の武士が備えていた心構えと、その兵法の比較。
陽明学真意の世界への懸け橋となった佐藤一斉、その橋を護り継いだ先人先達の為政の人たち。
《 この主題と題材を選んだ{動機|モーティブ} 》
ムロー先輩が、マザメの後裔記の中で、{斯|こ}う言っていた。
「おねえさん先生は、美しすぎるから、あの程度で許されて、生き延びて命{辛々|からがら}、戻って来ることができたのだ。それがもし、俺らなら、秒殺で、{肥溜|こえだ}めの底だッ!」
*時代*は、そんな怖ろしい急な斜面を、転がり落ちているのかァ! 忙しくて、当たり前だ。**心構え**も、なっちゃない!
マザメが、然修録の中で、佐藤一斉という人物のことを、斯う書いていた。
……その一斉先生が、故郷の岩村藩のために、なんと! 憲法を作った。『重職心得箇条』が、それ。
そのなかに、斯うある。
「重職たるものは、{如何|いか}ほど忙しくとも、忙しいと言はぬがよきなり」
これを、分解して説くと……。
忙しいと言うな。心に随分な余裕を持たねば、難題や大事を取り計らうことなどできぬ。つまらぬこと、余計なことまで、すべて自分でやり過ぎてしまうから、暇が無くなる……{云々|うんぬん}。
その*時代*の一番の悲劇は、幕末維新には多く{居|い}た佐藤一斉のような**人物**が、今は{居|お}らん! と、いうことだ。
**題材の{講釈|レクチャー}**
《 曲者や一廉の武士が備えていた心構えと、
その兵法の比較 》
日本最古の兵法教訓の書『闘戦経』に、斯うある。
「{懼|おそ}れを持ち過ぎてはいけない。
孫子十三扁、{懼|おそれ}の字を{免|まぬが}れざるなり」
日本最古の兵法教訓の書を書いた平安時代の兵法の大家、大江家の頭首は、世界最古の兵法書に学んでいる。
その『孫子』に書かれている兵法とは、{如何|いか}に要領よく勝つかに徹していると、言われている。例えば……。
「兵は{詭|き}道なり……戦争とは相手を{騙|だま}すこと」
結論。
兵法の究極は、戦わずして勝つこと。
その根底に、懼れの念あり。
ここで、どうしても、比較してみたくなる。
日本古来の戦い方……正に、真逆である。
例えば、我らが祖先と密かに{噂|うわさ}されている平家に雇われた水軍の海賊たち……その戦いっぷりの{理念模範|パラダイム}が、『平家物語』に書かれている。
「遠からん者は音にも聞け……」{即|すなわ}ち、先陣を切って敵に向かってゆき、互いに名乗り合う。
「兵は正直であれ……戦争で相手を騙してはいけない」と、言わんばかりに……{是|これ}正に、『孫子』と真逆だッ!
戦場で先頭をゆくということは、最前線。最も、命を落とし{易|やす}い。それでも、先を競って前へ、前へ……。命よりも、己の名を{遺|のこ}すことを、また{御家|おいえ}の名誉を、重んじていたのだ。
『孫子』が言う*懼れの念*の、{欠片|かけら}もない。
自分の命への執着も、{殆|ほとん}どない。
正に覚悟……戦うための心構えが、出来ている。
それは、幕末維新の志士たちにも、よく{顕|あらわ}れている。
志士たちは、処刑される前や討入りする前に、遺書の代わりに、よく{辞世|じせい}の句を詠んで、それを残した。
例えば、吉田松陰の辞世の句「{留魂録|りゅうこんろく}」には、斯うある。
「身はたとひ{武蔵|むさし}の{野辺|のべ}に{朽|くち}ぬとも{留置|とどめおか}まし{大和魂|やまとだましい}」
たとえ己の肉体が朽ち果てようとも、国を愛し、その行く末を{憂|うれ}うこの大和魂だけは、この世に留めておきたい……。
死への恐れなど、まったく感じさせない。
正に、驚くべき覚悟……と、まだ、ここで驚いてはいけない。死と正面から向き合い、あらゆるものと戦う心構え……その、最期の瞬間。
自分の首を{刎|は}ねようとする役人に、斯う言ったそうだ。
「ご苦労様です」
しかも、淡々と……。
まさか、覚悟を持って死ねとも言えないし、言われても、困る。でも、いろんなことを、少しくらい覚悟を持って事に臨んでも、いいのではないだろうか。
やる前から、失敗したりダメだったときにどうしようかと、ビクビクと*懼れて*悩んでばかりいるような気がする。
無事に……とはいかないまでも、生きて航海を終えたから言うわけではないが、不安に押し{潰|つぶ}されて、引き下がったり引きこもったりすることが、多いのではないだろうか。
「もう、逃げ場はない。やるっきゃない! なんとしても、これを、*俺が*、やり{遂|と}げなくてはならない」という覚悟を持って、事にぶち当たる……これが、本来、事に臨むときの基本。
その基本の中でも、初歩的と言うべき心構えではなかったか……。
《 陽明学真意の世界への懸け橋となった佐藤一斉、
その橋を護り継いだ先人先達の為政の人たち 》
佐藤一斉は、儒学を修めた秀才として名を{挙|あ}げ、幕府直轄の今でいう国立大学であるところの昌平坂学問所の教授に任じられ、のちに、今でいう学長に当たる学頭の座に就いた。
『重職心得箇条』は、彼の出身地である{美濃|みの}国岩村藩から依頼があったもので、家老などの藩の要人たちが務めるべき{政|まつりごと}の教訓を、佐藤一斉が自ら撰述したものだ。
その内容は……。
「平生、嫌いな人をよく用いるというこそ重職の手腕である」
「胸中を寛容、広大にして人を受け{容|い}れるという心構えが大切である」
と、こちらもまた、『闘戦経』と同様、曲者や一廉の武士が備えていた心構えというものを、正に*寛容*というべき精神に{則|のっと}り、これを尊重し備え持つことを、郷里の藩の重臣たちに求めている。
佐藤一斉の偉大な功績は、二つあると思う。
一つに、こうした教育の卓越した能力があったのだと思う。
その証拠に、師の弟子には、佐久間象山や渡辺崋山、大塩平八郎といった俊秀の才が{列|れっ}し、一斉の{薫陶|くんとう}を{蒙|こうむ}っている。
また現代では、小泉元首相が、この『重職心得箇条』の一節を持ち出して、外務省を{格|ただ}そうとたことも、よく知られている。また、佐藤一斉の主著『{言志四録|げんししろく}』の一節も、部下の訓示に持ち出したりもしていたそうだ。
二に、陽明学の第一人者としても、よく知られていたということだ。
日本の儒学の学頭であるから、学ぶべきその根本は、中国宋の時代に、朱子が儒学の古典を体系化した{所謂|いわゆる}朱子学であって、{然|しか}りである。
然し実際は、明代になって王陽明が、この朱子学に異を唱え、独自で発明した行動儒学説である陽明学を、日本人の心の学問の下敷きとした。
下敷きと言えば、統一ドイツの新憲法が、日本の『教育勅語』を下敷きにしたという話を聞いたことがある。それほど、江戸期から明治期の日本の心の教育は、優れていたと認めざるを得ない。
寺学舎の座学でお馴染みだったその陽明先生は、明代当時、どんな論を掲げたのか。我らムロー学級八名は、格物で四苦八苦するばかりで、一向にその先が見えてこない。
言葉だけなら、知っている。
{知行合一|ちこうごういつ}。
人間の内なる{良知|りょうち}に{順|したご}うて、善道を実践することを主眼とする。
一斉の弟子、大塩平八郎も、この*善道を実践することを主眼*とした結果、世直しのために、幕府に対して諫言の実力行使に打って出たのだろう。
その後……昭和の時代。
再び、一斉が現れる。{是|これ}、安岡教学。前述の小泉元首相も含めて、多くの政治家が、この安岡先生に{私淑|ししゅく}したと言われる。
例えば、佐藤栄作元首相が、沖縄返還という戦後最も重要な局面の決断に迫られたとき、この安岡先生の教示を仰いだと、今に伝わっている。
我ら{美童|ミワラ}にしても、儒学全般や陽明学を学ぶ際には、この安岡教学の教訓語録のお世話になることが多い。無論、シントピック・リーディングという観点を怠らないという意味で、大学の教授陣の書も、積極的に参考にしている。
ただ、心の指針……覚悟、心構え、行動の学といった心の学問においては、安岡教学に匹敵する語録は他に無いと、内心感じている。
**{蛇足|スーパーフルーイティ}**
「子どもは疲れない」とよく言われるが、それが真実だとしたら、どうやら、おれはもう、子どもではないようだ。
疲れたびーぃ!!
_/_/_/ 要領よく、このメルマガを読んでいただくために……。
Ver.1,Rev.9
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