MIWARA BIOGRAPHY "VIRTUE KIDS" Virtue is what a Japanized ked quite simply has, painlessly, as a birthright.

後裔記と然修録

ミワラ〈美童〉たちの日記と学習帳

然修録 第1集 No.137

#### ムローの{然修録|137}【1】座学「擦過する師友」【2】息恒循〈一循の{候|こう}〉少年/少女学年候補学童 ###

 {会得|えとく}、その努力に{憾|うら}みなかりしか。
 学人学年 **ムロー** 青循令{猫刄|みょうじん}
     
【1】座学
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擦過する師友

 よき師友が、目まぐるしく擦過してゆく。
 (敵ではないか……)という不安に阻害された貴い師友たちが、永遠に逢えぬまま、地の果てに去ってゆく。
 我ら八人が育ち学んだ半島の港町、スピアたちが降り立ったヒノーモロー島、オオカミが一人降り立ったザペングール島、彼らが旅をしたコオ島……その地、その先々で出遭った素晴らしい人びとが、本当に貴い師友だということを、みながもっと早くに気づいていれば、もっと違う道が{拓|ひら}け、もっと{真面|まとも}な働きをすることが出来ていたに違いない。
 俺は、今、本当に、そう思っている。なので、今更だけんども、改めて、その師友がなんたるかを、書の中の先人偉人に求めてみた。

 青少年の男女にとって、大切な心構えは、いくつもあると思う。その一つが、「人生の物事を、{浅薄|せんぱく}軽率に決めつけたり、割り切って無理に一つの答えを出そうとしてはいけない」ということらしい。
 人生とは、非情に複雑な因果関係で編み込まれている網のようなもので、しかもそれは、変化極まりない。人間{如|ごと}きが、これを軽々しく独断するなど、正しくとんでもない{愚昧|ぐまい}であり、それ{故|ゆえ}に、危ういという{訳|わけ}だ。
 これを論理学では、「{原因の複雑と、結果の
交錯|Plurality of causes and mixture of effects}」と言うそうだ。{則|すなわ}ち、実在するものの中から、著しい特徴を持つものを取り出し、それを{某|なにがし}かのものに結びつけ、「これが原因で、こっちが結果だ!」というふうに、決めつけてしまうということだ。
 例えば、胃が痛むとき、その原因は無数にあり、その無数の原因の結果は、胃痛だけに留まらず、無数にある。ただ、気づいていないだけという訳だ。なので、「昨夜、酒を飲み過ぎた。だから今日は、胃が痛い」と、あたかも原因が一つであるかのように、またあたかも、その結果が一つであるかのように決めつけるという習慣は、闇雲から闇雲へと、どんどん視界を狭めてゆくことに他ならないのだ。
 単純に因果の対を決めつけてゆく過程で、多くの因果が{棄|す}てられてゆく。その棄てられた因果の中に、意外にも重大な論理が潜んでいたかもしれない。実際問題、因果関係というものは、元来複雑なもので、何がどういう縁で(=因)、どういう結果を生み(=果)、どう自分に(=応)跳ね返って来るか(=報)ということは、測り難いことなのである。

 法華経に、十{如是|にょぜ}というものがある。
 如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是{本末究竟等|ほんまつくぎょうとう}。
 これは、因果の循環関係を示している。

 俺たちが直接経験するそのままの世界、その事象のことを、「相」と言う。言わずもがな、これは、定まるところがなく、変化極まりない。そのことを、「無相」と言う。仏教の道は、前者の{現|うつつ}の相を打破し、後者の無相に覚醒することを求めている。
 この相の中には、相が映す事象に到らしめるように働く何者かが存在している。これを、「性」という。その性の源にあるものが「体」で、その体には、「力」がある。この働きの様々な作用のことを「作」と言い、また同時に、この「作」は、様々な事象の「因」ともなっている。この「因」が、不思議な縁(=触れ合い)によって、様々な「果」を生じさせる。縁から起こるから、これを「{縁起|えんぎ}」と言う。

 結果は、更に某かの原因となり、それに挑むことにより、何らかの応えがある。それを「報」と言うから、「応報」と相成る。すべては異なっているが、また同時に、それらすべては、みな同一である。
 {トインビー|Amold Joseph Toynbee}(一八八九~一九七五)というイギリスの歴史哲学者が、このことを説いている。歴史上の文明圏の発生、発展、衰退、滅亡までの事象を詳細に調べ、そこに一貫している法則性を、明らかにしたのだそうだ。
 だから、自分の仕事にまったく関係ないような勉強も、不思議とどこかで繋がっているし、自分が居る業界とはまったく関係のない職業の人たちも、不思議とどこかで繋がっている。人の世の出来事というものは、何が幸いであり、何が{禍|わざわい}となるかは、容易には判らぬものなのだ。

 「{人間|じんかん}万事{塞翁|さいおう}が馬」という{諺|ことわざ}がある。
 中国の古代百科書『{准南子|えなんじ}』の中にある言葉だそうだ。「北辺の要塞の辺境に住む老人の馬が逃げ、やがては、戻って来る。それを何度も繰り返す度に、戻って来たときの老人の禍福が、変転していた」という話だ。
 「勝縁」という言葉もある。
 平生より、およそ善い物、善い人、真理、善い教え、善い書物、なんでも{兎|と}に{角|かく}善いものや{勝|すぐ}れているものには、出来るだけ縁を結んでおいたほうがよいという意味だ。せっかく善いものを見たり善いことを聞いたり善い人に出逢ったりしながら、{他人事|ひとごと}のようにキョトンとしたり、そっぽを向いてしまうような人間は、ダメだ!……と、いう訳だ。
 そういうダメ人間のことを、「うつけ者」と言う。
 そういう、{所謂|いわゆる}「悪しき師友」という者と、{如何|いか}なる理由があれ、事を共にしてはならない。常に耳を傾け、眼を光らせ、魂を輝かせているような人間こそが「見どころがある人間」であり、そういう人間を、師友に持たなければならないのである。

 これには、いろんな{逸話|いつわ}が、残っている。

 先ず一つ目……。
 {山科|やましな}に閑居していたころの{大石内蔵助|おおいしくらのすけ}は、よく伊藤{仁斎|じんさい}のところへ出かけて聴講をするのだったが、これがどうしたことか、よく居眠りをする。それが、同席の聴講生たちの{癇|かん}に{障|さわ}ってしまった。そこで、その聴講生たちからの苦言を耳にするに到った伊藤先生は、{斯|こ}う言ったという。
 「いや、気にかけなさるな。眠ってはおるが、あの人は、出来ておる」
 伊藤仁斎(一六二七~一七〇五)は、江戸前期の儒学者。京都出身。朱子学を修めたのち、古学を教える。門弟の数は、三千を超えたという。
 大石内蔵助(一六五九~一七〇三)は、播州赤穂藩家老。元禄十五年、主君浅野{長矩|ながのり}の{仇討|あだう}ちのため、浪士四十六人を率いて{吉良上野介|きらこうずのすけ}の{邸|やしき}に討ち入った。

 次に二つ目……。
 佐藤一斉の塾で、就寝時間が来ると決まって二人の若者が、大声で猛烈な議論をおっぱじめる。塾生たちが、それを一斉先生に訴え出ると……。
 「それは誰だね」と、一斉先生。
 「佐久間({象山|しょうざん})と山田(方谷)です」と、塾生。
 「そうか!」と、一斉先生。
 ……{暫|しば}し、沈黙。
 「うん。あの二人なら、やらせておけ! がまんせい!」と、一斉先生は、逆に塾生たちのほうを{嗜|たしな}めたという。
 佐久間象山(一八一一~六四)は、幕末期の思想家であり、兵学者でもあった。砲術や兵学を、吉田松陰勝海舟らに教えた人物でもある。松陰の米国密航計画に連座した罪で下獄。開国論や公武合体論を唱えた結果、{攘夷|じょうい}派に暗殺される。

 この{曲者|くせもの}にして偉人たる者たちは例外としても、要は万人、世間知らずの専門バカ!にならぬよう、{虚心坦懐|きょしんたんかい}で、様々な境遇の下で様々な営みをしている人々から、また、洋の東に留まらず、西洋の様々な学問や歴史習慣に到るまで、分け隔てなく学ばなければならないという訳である。
 これらの学びの要求が、己の内面にある誠実なものに因ってである限り、その学問の多面性は、どの面も輝かしいものとなる。「そうならぬ筈はない!」と、言い切れようものである。

【2】息恒循
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〈一循の候〉少年/少女学年候補学童

 《生涯》{則|すなわ}ち{天命|てんめい}の〈前期〉である{立命期|りつめいき}の〈一の循〉を、{幼循令|ようじゅんれい}と言う。幼循令は、立命期の前半でもあり、零歳から六歳までの七年間を指す。
 その幼循令の後半、四歳から六歳までの三年間を、少年/少女学年候補学童と称す。寺学舎就学前の{美童|ミワラ}各自に与えられた自修の努めの仕上げ期であり、継続して日々〈敬〉と〈恥〉を希求するものなり。

 「子供は、幼稚である。まだ何も内容のない、ただ未熟なだけの人間である」と錯覚したことは、大人たちの不明に他ならない。真実は、その真逆である。子供は、豊富な内容と能力を、持っている。しかもそれは、無限であり、それは正に、宝蔵である。宝蔵とは、宝物や経典を{蔵|しま}う蔵のことであるから、子供の頭の中にある実際の内容は、輝かしい宝物や、有難い経典……それが、ギッシリと詰まっているという{訳|わけ}である。
 また子供は、夢を持っている。その夢が大きければ大きいほど、無限性が大きく広がっていることを意味する。{則|すなわ}ち、子供はみな、なんにでもなれる可能性を持っているということだ。
 しかも子供には、先入観や卑屈な劣等感もない。立派な政治家を見れば、自分も大きくなったら、あんな立派な大臣になるぞ!と大真面目に思い、勇ましく優れた将軍を見ればその将軍に、{勝|すぐ}れた演技をする俳優を見ればその俳優に、ズバ抜けた活躍をするプロ野球の選手を見ればそのプロ野球の選手に、美声でうっとりする歌手の歌声を聴けばその歌手になりたがる。
 これは、子供の{融通|ゆうずう}心理ともいうもので、感激すると、なんにでもなりたがる。また、なろうとして、大真面目に努力する。だから、なんにでもなれる素質を、大事に育んでゆけるのだ。それが、「生まれ持った美質」というものなのである。

 ところが、その大事な時期に、「学校」という、大人に非常に都合がよい組織に、投げ{棄|す}てられてしまう。大人たちから、ありとあらゆるものを限定され、否定されてゆく。
 正に、地獄だ! 
 次に、その学校を出ると、大人たちが、ご丁寧に道を用意してくれている。実業界、官界、教育界、工業に農林水産業……選択肢は、精々そんなところだ。
 次に、その道を歩み出すと、更なる地獄が待ち受けている。何省、何局、何部、何課、何係、何担当……と、なんと悲しい道であろうか。

 その道は、宇宙に繋がり、そこを歩む人間は、その宇宙と一体である{筈|はず}ではなかったのか。宇宙と一体であれば、{如何|いか}なる限定も、如何なる否定も、受けることはない。正に人間は、無限なのである。だからこそ、浮世の{猥雑|わいざつ}な仕事も、世のため人のために活かす工夫が、出来るのだ。それが、「真の学問」というものなのではなかろうか。それを、「修養」と言うのではなかろうか。
 であるからにして、真面目な話、子供というものは、本当に、無限の可能性を持った、「美質」と言わざるを得ない、何か素晴らしいものを、持っている。そこには、宗教的なもの、藝術的なもの、音楽的なものなど、あらゆる性質や性能を、含み持っている。子供はまだ、自然の一部であり、自然の一部であるから宇宙と一体なのであり、それ{故|ゆえ}に、可能性のあるものすべてを具現する能力を、持っているのである。

 だが……言わずもがな、その具現は、様々な可能性の一部に{止|とど}まる。{然|しか}し、具現しなかった可能性は、学問や日々の努力によって、ほかの様々な可能性の、{肥|こ}やしと相成る。それが、「子供」というものなのだ。
 だから子供……特に、少年少女期の助走段階である幼年期は、非常に重要で、極めて大事で、本当に、大切にしなければならないのである。

(Ver.2,Rev.0)

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_/ 3 /_/ 然修録 第1集の子どもたち
寺学舎 美童(ミワラ) ムロー学級8名
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