MIWARA BIOGRAPHY "VIRTUE KIDS" Virtue is what a Japanized ked quite simply has, painlessly, as a birthright.

後裔記と然修録

ミワラ〈美童〉たちの日記と学習帳

然修録 第1集 No.142

#### ヨッコの{然修録|142}【座学】{参|まい}り参られる人【息恒循】〈二循の反〉学人学年 ####

 {会得|えとく}、その努力に{憾|うら}みなかりしか。
 門人学年 **ヨッコ** 青循令{飛龍|ひりゅう}

座学
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参り参られる人

 ヒト種……自然{民族|エスノ}亜種。
 ヒト種の人たる{所以|ゆえん}って、なんだろう。
 「人で無し」の悪玉ジンなら、絶滅してもらったほうがいい。
 そんなことを考えながら、書の中の先人に学んだ。

 ヒト種の人たる所以は、「道徳を持った生きものだ」ということだ。
 「そんなもん! 持ってるか持てないかなんて、判らないじゃないかァ!」
 ……ふむ、{仰|おっしゃ}るとおり。
 でも、その道徳ってのは、心の中に現れる。
 それは、二つ。
 一に、敬すること。
 二に、恥ずること。
 この二つは、人間にのみ、神が与えてくれたものだ。

 敬する心は、どういうときに生まれるのか。それは、人間が限りなく進歩し、常に発達を望み、{僅|わず}かな未完成にも妥協せず、より完全で偉大なるものに憧れるときに生まれる。
 {斯|か}くして敬する心に成長すると、漏れなく同じ心の中に、「恥ずる」という情動が生まれる。一つの心の中に、敬する情動と恥ずる情動が共存する。敬することを知っている人は、恥ずることも知っているという{訳|わけ}だ。
 ところが、誠に残念なことに、私たち〈{日|ひ}の{本|もと}〉の国が敗戦して以来、教育現場において、この尊い「敬する」という心の動きを、一切禁じられてしまってきた。敗戦後、子供たちに教えられたのは、敬することでも恥ずることでもなく、「愛」一辺倒だったのだ。
 では、愛とは何か。それは、女性の専売特許! {則|すなわ}ち、「母の徳性」ということだ。なので、愛のみを強調されて育った子どもは、家庭の中で大切な人は、「母のみ!」……と、いうことになってしまう。
 言わずもがな、父親の存在意義は、次第に薄れてしまう。ただひたすら働いて、お金という獲物を、毎月決められた日に持って帰ってくれれば、それだけでよ良い、合格♪……と、{宛|さなが}ら働き{蟻|アリ}やミツバチが{如|ごと}く、そんな待遇……境遇!に甘んじて生きてゆかねばならない。
 
 ではでは……じゃあ、子供たちは、愛だけで満足する?
 子供たちが、本来、本能的に持っているのは、愛することではなく、敬することだ。その敬する対象を両親に求めるのは、至極当然なことなのだ。
 ときに{幼子|おさなご}というのもは、父親のブカブカの帽子を被ったり靴を履いたりして、よく大人たちを笑わせてくれる。でもこれは、「大人たちを笑わせてあげよう♪」だなんていうサービス精神とは、まったく無縁なのだ。敬するが{故|ゆえ}に、真似てみただけのこと……。
 この点に着目して考えてみると、父親というものは、我が子に対して、あまり口やかましく言わないほうが良い……という状況判断が、成り立つ。口やかましく言うことも大事であることに変りはないが、それは、どちらかというと、やっぱり母親の仕事だ。
 逆に、親の立場に置き換えてみると、そんな我が子の理想像としての親象の{心象|イメージ}を自ら壊さないように、{或|ある}いは、そんな敬する気持ちを芽生えさせるに値する親であるがために、常日頃から態度や言葉に到る立ち居振る舞いに、細心の注意を払わねばならぬということだ。

 子が親の真似をすることからも判るように、人間は、敬する心を持つと、自らその敬する者に少しでも近づきたいという気持ちが自然に湧き起こってくる。これは、愛する心には無い、敬する心の最たる特徴だ。
 これを、「参ずる」とか、「参る」などと言う。神仏に参るように、敬する者に参りたくなるということだ。すると次第に、参るだけでは飽き足らなくなる。そこで、{側|そば}近くで{仕|つか}えたくなる。これを、「{侍|はべ}ると言ったり、「{候|さぶらう}」と言ったりする。
 {侍|さむらい}の起源は、民衆から生まれた「さぶらい」と呼ばれる浪人{風情|ふぜい}の庶民剣士だったそうだ。*さぶらえる人と出会える*ということは、実に恵まれた、幸運な出来事なのだ……と、思わずにはいられない。
 しかも、「参る」という言葉に到っては、愛の場面にも現れる。「A君、あんたに参ってるみたいだよん♪」なんて言われた日にゃあ、そのA君がそれなりの男なら、女{冥利|みょうり}に尽きるというものだ。
 {何故|なぜ}なら、好きとか恋とか愛とかで表現されるものとは、まったく意味が異なるからだ。そこには、相手を敬する対象として、異性の理想像として礼讃する気持ちが、込められている。言い換えれば、人間としての尊さや、精神的な偉大さを、認められたということになる{訳|わけ}だ。

 この「参る」の用例は、これ以外にも、枚挙に{暇|いとま}がないほどある。そこに触れると、主題から大きく外れてゆくこと必至!であるからして、ここで、{鞘|さや}を納めることにする。

 あたいは……最近、こんなことを考えている。

 参りながら参られる人間を目指すなら、その途に戦争があったとて、それは、自然として受け入れるほかないのではあるまいか。学問で喜怒哀楽が大事であるように、戦うべき時は、大いに戦うべきなんじゃないかと、あたいは思う。

 それが、ヒト種という動物の{掟|おきて}……「天命」なんだと思う。

息恒循
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〈二循の反〉学人学年

(第二版 改訂一号)

 生涯、{則|すなわ}ち{天命|てんめい}。その最初の重要期を{立命期|りつめいき}と言い、その立命期の後半の循である七歳から十三歳までの七年間を、{少循令|しょうじゅんれい}と言う。

 その少循令の最高学年を、「学人学年」と言う。

 「学人学年」とは、何を学ぶ歳なりや……。

 天命とは、全天界の{造化|ぞうか}の絶対的な作用、働きである。
 これが、人間を通じて作用したとき、その人間に、性が生じる。
 「性」とは、心理・精神が発達した動物の生き{様|ざま}のことだ。
 この「性」に{率|したが}って、日々実践、開発してゆく。
 これが、「道」だ。

 人間は、道に率わねば、一歩も進むことができない。どこにも、到達できない。{故|ゆえ}に、何を置いても、先ずは道をつけねばならない。
 道を表す文字の一つに、「田」という文字がある。
 古代の先人たちが未開発の荒野の先ず一{区劃|くかく}目である「口」の文字で表される範囲を耕作しようというとき、先ず最初に取り掛かった仕事が、道を造ることであった。田の文字の中の「十」の文字が、その道を表している。それと同時に、「その道を造るために努力する」という意味もある。
 古代の先人たちは、この道のお蔭で、狩りができるようになった。そこでこの田という字は、「狩り」の意味も持つ。このような意味から総じて、あらゆる場面に於いて「道をつける」ことができない、{或|ある}いは、そうしようとする努力すら出来ないような者は、「男じゃない!」と、相成る。

 {順|したが}って「道」というものは、座学でどうにかなるような観念的なものではない。正に、実践そのものなのだ。且つ、創造的である。{則|すなわ}ち、天命の絶対的な作用・働きの実戦であり、これが人間の本性であり、人間は、この本性……{所謂|いわゆる}天分の能力に率って、日々実践してゆく……これが、「道」というものである。

 禅の修行僧の話に、こんなものがある。
 ある弟子が問うた。
 「{如何|いか}なるかこれ道」
 師匠、これに応えて言う。
 「道かァ? 道なら、それそこの{牆外底|しょうがいてい}、垣の外にあるじゃろッ! あれが、道じゃ」
 弟子、ムッとして言う。
 「私の{尋|たず}ねておるのはそんな道ではありません。大道です」
 すると、師匠が、言下に{斯|こ}う言った。
 「大道長安に通ずる」

 都の長安に通じとるのが、大道じゃい! ……みたいな。今で言うなら、「国道一号線のことじゃわい♪」と、言い返されたようなものだ。座学や性急な思索だけで道を{解|わか}ろうとすると、観念や論理に{溺|おぼ}れてしまい、肝心{要|かなめ}の「実践」から遊離「ハイ、サヨナラーァ!!」してしまう……と、いう{譬|たと}えだ。
 実践から遊離したところに、道などあろうはずがない。{故|ゆえ}に、絶え間なく開発してゆかねばならぬ。何事も、{放|ほ}ったくっていると、すぐに草{茫々|ぼうぼう}になり、荒れ果てて、すべてを見えなくしてしまう。

 「道を修むる之を教と謂ふ」……という語録がある。
 弟子は、迷えるものである。どの時代にも、「教」は必要となる。
 教というのは、単に口で教えるだけではなく、実践を伴い、それが、お手本となる。教師が実践して生徒のお手本となり、生徒を、実践へと導く……これが、教の師の仕事である。これを怠る教職員のことを、某「狂氏」と書く。

 学をするということは、単に言葉や{文言|もんごん}で教えられたり教えたりすることではない。先輩の実戦をお手本とし、実践して後輩のお手本となることである。

 ここに到って、{愈々|いよいよ}{美童|ミワラ}は、**知命**するのである。

_/_/_/_/ 『然修録』 第1集 _/_/_/_/
寺学舎 美童(ミワラ) ムロー学級8名

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未来の子どもたちのために、
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 東亜学纂学級文庫★くまもと合志
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