MIWARA BIOGRAPHY "VIRTUE KIDS" Virtue is what a Japanized ked quite simply has, painlessly, as a birthright.

後裔記と然修録

ミワラ〈美童〉たちの日記と学習帳

然修録 第1集 No.164

#### 薩摩学舎と寺学舎 サギッチ {然修録|164} ####

 {会得|えとく}、その努力に{憾|うら}みなかりしか。
 少年学年 **サギッチ** 少循令{嗔猪|しんちょ}

 九州の{薩摩|さつま}地方では、戦争が終わる直前まで、どの町でも郷中教育と呼ばれる独特な教育が行われていたそうだ。
 その学び{舎|や}を、学舎と呼んでいたらしい。
 おれら{美童|ミワラ}の学び舎も、同じ*学舎*の名がついて「寺学舎」と呼ばれているので、何やら親しみを感じてしまう。
 激動の修羅場を{潜|くぐ}り抜けた薩摩と、*学舎*という名がついた学び舎という共通点があったのだと思うと、なんだか光栄で嬉しい。

 おれらの寺学舎がある{備後|びんご}という地方だって、それなりに歴史の一端を担ってきた。
 おれたちの祖先は、平家の{傭兵|ようへい}の海賊だけど、寺学舎がある{界隈|かいわい}は、潮待ちで栄えた港として万葉集にも歌われ、朝鮮通信使は、その景勝を{讃|たた}えて「日東第一景勝」なる横書きを残し、室町時代の末期には、一年間だけだけど幕府が置かれ、将軍・足利義昭が実際に住まっていた。
 その潮待ちの港町も薩摩の地も、今となっては遥か遠い祖国……北半球のちっぽけな島国の片田舎に過ぎない。

 寺学舎では、古今東西の偉人の語録なんかを学んでいた。
 薩摩では、言わずもがな西郷隆盛だろう。
 そこで今日は……というか、オーストラリアに置き去りにされる記念にというか、その西郷どんに関する読書をしてみた。

 西郷隆盛没後、西郷どんの語録を集めて一冊の書籍に{編纂|へんさん}したのは、意外にも徳川幕府親藩だった。
 庄内藩が編んだ『西郷南洲{翁|おきな}遺訓集』が、それ。
 「庄内藩」という言葉から連想されるのは、庄内平野。
 山形県の米どころだ。
 薩摩からは、遠い。
 しかも、その庄内藩は、{戊辰|ぼしん}戦争で薩長率いる官軍に抵抗している。
 西郷どんらにとっては、{所謂|いわゆる}朝敵なのだ。
 徳川幕府崩壊を容認しきれない将軍{慶喜|よしのぶ}の意を背負って、{白虎隊|びゃっこたい}で知られる会津藩や奥羽越の諸藩とともに、最後まで官軍に抵抗を続けたのだった。
 最後には、官軍に帰順することになる{訳|わけ}だけれども、その庄内藩が『西郷南洲{翁|おきな}遺訓集』を編纂したという歴史の奇妙が、実に興味深い。

 官軍の総大将だった西郷どんは、戦いに勝って庄内藩鶴ケ岡城下に兵を進駐させるとき、自軍の兵の刀を{召|め}し上げて、丸腰で入場させたんだそうだ。
 戦勝の兵士たちは、激しい戦闘に耐えて勝利し、興奮{覚|さ}めやらぬ状態だから、乱暴{狼藉|ろうぜき}を働く恐れが{大|だい}だ。
 それを未然に防ぐ意図で丸腰ということになった訳で、当然、敗者側の兵士の刀も取り上げるべき……というか、絶対にそうするよねッ?
 ところが西郷どんは、庄内藩の兵士たちの刀を取り上げるようなことはせず、事もあろうか帯刀を許したのだった。
 庄内藩の武士たちが、誇りを失ってはいけないという理由うから、刀は取り上げなかったんだそうだ。
 この西郷どんの予想だにしない{采配|さいはい}に、庄内藩の人たちは{皆|みな}一様に驚いたそうだ。
 そりゃそうだろう。

 その結果、敗者側に必ず残るはずの勝者に対する憎しみが{殆|ほと}んど無く、逆に敵軍の総大将だった西郷隆盛に対する尊敬の念が高まり、ついには西郷どんに{私淑|ししゅく}する人まで現れた。
 特に、庄内藩の若き兵士たちは、西郷どんの教えを直接{請|こ}いたいと、次々に願い出るのだった。

 この戊辰戦争のあと、西郷どんは、新政府で陸軍大将参謀という要職に就く。
 ところが、出来上がった政府は、西郷隆盛自身や多くの若者たちが情熱を燃やし{血涙|ちるい}を流してまで希求していたものとは、かなりかけ離れたものだった。
 失望のなかにあった西郷隆盛は、欧米列強からの侵略を恐れて鎖国している朝鮮への対応を巡って、新政府と対立する。
 そして{終|つい}に、それを機として郷里鹿児島に帰ってしまった。

 新政府で職を得て江戸暮らしをしていた薩摩の士族たちも、西郷どんを{慕|した}い、共に職を{辞|じ}して薩摩に帰郷する。
 すると西郷どんは、彼らが道を誤ることがないようにと願い、薩摩に私学校を創設して、青少年の教育に情熱を注いだ。
 すると、西郷どんの私学校に、庄内藩の青年たちが、西郷隆盛という男を慕って、大挙してやってきたのである。
 それだけではない。
 庄内藩の元の藩主や家老たちまでもが、西郷どんの教えを{請|こ}いに薩摩までやって来たんだそうだ。

 ところが、{俄|にわ}かに問題が起こった。
 西郷先生の{下|もと}で学んでいた若者たちが、次第に、新政府に対して{悲憤慷慨|ひふんこうがい}を募らせていったのだ。
 そして……{遂|つい}に、若い学徒たちが暴発する。
 新政府の弾薬庫を襲い、武器や弾薬を奪い、新政府打倒の{狼煙|のろし}を上げてしまったのだ。

 このとき、西郷どん自身、決起の意図は、まったく無かったと言われている。
 若者たち決起の日……西郷どんは、犬を伴って猪狩りに出掛けていた。
 決起の報を受けて鹿児島に帰って来た西郷どんは、一旦は血気に{逸|はや}った私学校生たちを叱りつけたが、仕舞いには、「みながそうしたいと言うならしょうがない。自分の命を差し上げる」と言って、自ら己の運命を若者たちに{委|ゆだ}ねたのだった。

 西郷隆盛は、負けることを承知で出陣した。
 のちに師団司令部となる熊本城の鎮台を攻め、更に北上を図る。
 しかし、{田原坂|たばるざか}で官軍に{敗|やぶ}れ、鹿児島に戻ると、城山で{最期|さいご}を迎えた。
 この{所謂|いわゆる}西南の{役|えき}に、庄内藩から{馳|は}せ参じて薩摩軍に加わった兵士たちも{居|い}た。
 私学校で学んでいた庄内藩の若者たちの多くも、西郷どんの制止も聞かず、従軍してその多くが命を落とした。
 庄内藩の士族たちが、{如何|いか}に西郷隆盛という男に心酔していたかの{顕|あらわ}れである。
 負かした相手をそこまで心酔私淑させるとは、なんたる度量の大きい男なのであろうか。

 海洋の中の一国一文明一民族……我が祖国、{日|ひ}の{本|もと}。
 そこには、西郷隆盛庄内藩の若き兵士たちのよに、本当に素晴らしい*ヒト*たちが{息衝|いきず}いてきた。
 そんな尊い血筋の{欠片|かけら}さえも誰ひとり知る者など{居|い}ないだろうと思われるこの最果て異国オーストラリアに置き去りにされて、一体全体おれは、何を学べばいいのだろうか。
 タケゾウ組の{武童|タケラ}たちは、存亡の危機から日の本の国を救うため、祖国へと帰って行った。
 今おれが{居|い}る島は、南半球にあって、大陸のように広大だ。
 しかも、原住民のアボリジニーの人たちを征服したヨーロッパのアングラだのザクセンだのという海賊の後裔たちで{溢|あふ}れている。
 おれたちの祖先だって、平家軍の傭兵とはいえ、元を{糺|ただ}せば海賊団だ。
 この国の人たちとも、何か通ずるものや、{某|なにがし}か学べるものが、きっと少なからずある{筈|はず}だ。

 おれたちにも、必ず、出番がやってくる。
 おれは、この異国の海賊団の島で、{武童|タケラ}になる。
 そして、出番を待たずして祖国に帰って、必ず*日の本*を一つにしてみせる。

 南半球は、今日も{烈冬|れっとう}の寒さだ。 

 _/_/_/ 『然修録』 第1集 _/_/_/
 ミワラ<美童> ムロー学級8名

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 吾ヒト種  われ ひとしゅ
 青の人草  あおの ひとくさ
 生を賭け  せいを かけ
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 ルビ等、電子書籍編集に備えた
 表記となっております。
 お見苦しい点、ご容赦ください。

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