みなさん、おはようございます。
【然修録】です。
毎週日曜の朝7時。
今朝も、お届けいたします。
「行動と目的の学」を実践する子どもたちの学習帳。
読み切りで ♪
エスノキッズ 心の学問 「教学編」
令和2年8月2日(日)号
一つ、学ぶ。
花の十代の小娘が父親学云々(うんぬん)と蘊蓄(うんちく)を垂れるのは、大いに憚(はばか)られる。
〈知らないこと〉とは、何か。
それは、〈知っていると思っていること〉だ。
これは、座学で塾師が余談に講じているとき、瞑想に引き込まれて、ふと頭に浮かんだ言葉。
〈おやじ〉ってさ。
外じゃキリッとして、シャキシャキ働いてるんだろうけどさ。
家じゃ結構、ぐうたらしてるって思わない? なくない?
それでも昔の母親ってのは、父親を家父長と呼んで、敬う態度でもってその権威を子どもたちに伝えてたらしいけど......。
今じゃ、「男どもォ!」扱いだからね。
権威が地に落ちたってのは、まさにこのこったね!
こうなったら、父親も腹をくくって、家でも、キリッとシャキシャキするしかないね。
でもね、躾(しつけ)のこと細かいところに口を出すのは、社会生活にたとえたらご法度(はっと)ってもんさ。
なんでかってぇ?
いくら女房が自分を立ててくれないからって、母親の領分の小言や叱りつけまで父親がやりはじめたら、それは権威どころか、軽視が加速するだけさ。
家庭内での父親の仕事は、社会的な視野の広さや人生を遠く先まで見通す展望にものを言わせて、子どもが日常生活の節目や人生の岐路に立ったとき、その方向を明示してくれる良き相談相手になることだと思う。
そこで父親が権威を保っていれば、傍目(はため)からは親し相談相手でありながら、子どもらからは、人生における厳しい先達(せんだつ)に映って見えるというものだ。
それが、権威ってーぇもんじゃないのかねッ!
って、思うわけさ。
まんざら、座学で寝てばっかでもないだろォ?
ってね (^_^;)
せっかくだから、その座学の受け売りを、一つ。
むかし、神童と呼ばれた旧制高校の生徒が、北関東の名所の滝に、投身自殺してしまった。
そのときの遺言が、
「世の中は不可解なこと多かりき」
だったそうだ。
哲学がまだ隆盛かにみえていた時代に、なぜその哲学が身になり行動に活かせなかったのか。
挙句、現代......。
哲学は、難解で馴染めないものと、固定相場になってしまっている。
それは、なぜかッ!
本来、哲学とは、肚(はら)に据え、体に沁(し)み込ませて<する>(=行動)ものであり、頭で学ぶものではないからだ。
むかしの禅師の歌のなかに、斯(こ)うある。
「世の中に 何が苦しと 人問わば 御法(みのり)を知らぬ 人ぞと答えよ」
大事なことを曖昧(あいまい)にしたまま生きてるから、人生、苦しむんだがねぇ!って意味。
次は、西洋の哲学者の言葉。
「哲学とは、無意識のうちに当然としてきたものを白日の光に持ちきたらし、意識の世界に上げ、それに光をあてることだ」
哲学とは、洋の東西を問わず、人間に、活力や勇気や希望を与えてくれるものらしい。
だからというか、なおさらというか、なるほど、〈学〉=〈行動〉でなければ、哲学は成立しない。
と、いうわけのようだ。
武器で武装した兵士はビクビクするけど、哲学で武装した父親は、どっしりと構えてる。
......って、みたいな感じかなッ?
「じたばたすんじゃねえ!」
って言って、絵になる〈おとっつぁん〉って、素敵だよねーぇ♪
令和2年8月2日(日)号
一学 27【熟師になるために父親学を学ぶ。それを学ばず大罪を犯して後悔している男ども。彼らを父親と呼ぶ】学徒、マザメ
【行動と目的の学】
江戸期の儒学者たちは、学問を一つの型にして、学校や家庭に根付かせました。その型が崩壊した現代、廃残したわたしたち民族には、新たなる型が求められています。
美質を生まれ持った子どもたちは、戈(ほこ)を止(とど)めると書く武の心を修めるために、東亜の行動哲学、西洋の目的心理学、民族史と神話、未来と過去の脚本技術などを学んでゆきます。
Japanize Destinies Distribution
『亜種記』『息恒循』『然修録』『後裔記』
JDD 東亜学纂
http://www.akinan.net