MIWARA BIOGRAPHY "VIRTUE KIDS" Virtue is what a Japanized ked quite simply has, painlessly, as a birthright.

後裔記と然修録

ミワラ〈美童〉たちの日記と学習帳

一学 43【ワタテツの然修録】立命期のミワラ〈美童〉が修養すべき事(運命期のタケラ〈武童〉を知る)『離島疎開13』

然修録『離島疎開』編(上)
AEFバイオノベル 令和2年11月22日(日)号

 一つ、学ぶ。
立命期のミワラ〈美童〉が修養すべき事(運命期のタケラ〈武童〉を知る)

 先の然修録にもあったように、我ら人間は、途轍もなく大きな自然、その自然さえも微塵ほどの大きさのほんの一部分に過ぎない広大巨大な宇宙生命の根源の力によって、この世に生、命を与えられたのだ。その生に、なんの疑念があろうか。不満を抱いたところで、それになんの意味があろうか。ただ精一杯に生き、命を全うするほかに、〈生きる〉という道はないではないかッ!

 だから哲学は、人の数だけある。自然観も、世界観も、人生観も、人それぞれ。違って見えるし、事実まったく別物に相違ない。自分にしか見えないのだから、神様や{況|ま}してや赤の他人の誰かが、どうにか善くしてくれようはずがない。自分自身で探求鍛錬して、好い人生観にしてゆくしか、生きる道はないということだ。

 その人生は、七年を一つの周期として、それが七回ある。

 オギャアと誕生してから始まり、最初の二回の周期が立命期、残りの五回の周期が運命期だ。二回目の周期は、齢にして八歳から十四歳に当たる。この二回目の周期にだけ学年があり、旅に出るという仕来りがある。……そうです。寺学舎で座学をしていたおれら、少年/少女、学徒、門人、学人のことです。更に、立命期で自反と格物によって修養する児童たちのことをミワラ〈美童〉と呼び、運命期で致知の道を歩み天命を目指す学童たちのことを、タケラ〈武童〉という。

 {千振|センブリ}を舐めた猫のような顔をしていませんか?

 おれも、そんな顔をしながら、書の中の先人や{現世|うつしよ}の先達に学んでいる。「良薬は口に苦し、忠言耳に逆らう」という儒学師の名言語録があるように、忠言や忠告というものは、聞いて快いものではない。だが、苦ければ苦いほど、本当に世のため人のため、人生のため修養のためになる。正直、まだ心の底から本当にそう思えているところまでには到達していないが、それが真実であることくらいは、判ってきた。

 さて、そのミワラ〈美童〉の修養。
 古来仏教のなかに、三大修養というものがある。
 戒、定、慧。

 「戒」 人生においては、戒律を守らねばならない。古来仏教で説かれた{十戒|じっかい}すなわち、不殺生、不{偸盗|ちゅうとう}、不{邪婬|じゃいん}、不妄語、不{綺語|きご}、不{悪口|あつく}、不両舌、不貪欲、不{瞋恚|いんに}、不邪見が、まさにそれだ。日本仏教においては、江戸中期の高僧、慈雲尊者が書いた『十善法語』という名著に、懇切丁寧な解説があるそうだ。修行僧といい、儒学者といい、江戸期や明治期というのは、まさに我が国の「学問黄金期」と言えよう。

 「定」 安定すなわち、精神肉体の統一。その発祥は、インドの原始仏教。{所謂|いわゆる}一つの禅、静坐内観のこと。その静坐とは、腰骨を立てるということらしい。まさに寺学舎の座学が、この{立腰|りつよう}の徹底であり、実践である。

 「慧」 智慧、叡智。原始仏教が最も問題とするところ。知識が食材だとすれば、智慧は料理人であろう。旅の途中、とある仏蘭西料理店の料理長から、有難いお話を伺うことができた。{斯|こ}う、言っていた。「料理というのは、良い食材を選び、その素材の素晴らしさを学び、その好さを最大限に活かすことだ」と。智慧とはまさに、その人の身体に染み入って、活きて機能する知性に他ならない。知識が読んだり聴いたりして得た「知」だとすれば、智慧は、自ら行動して体験から得た「知」。これこそが、人格の血となり肉となる。

 そうした活きた知恵を体得するために最も効果的な方法は、実際そのような知恵を体得し、備え持っている先達や書の中の先人と心を通わせることだ。寺学舎に通うことも、旅に出ることも、その目的は、そこにある。それ故に、タケラ〈武童〉は{素|もと}より、ミワラ〈美童〉高学年の学人や門人の教学(教える事と学ぶ事)は重要であり、その修養の責任は、重大なのだ。

 ところが実際は、{猥雑|わいざつ}に氾濫した書物の中から、このような智慧を本当に含み持つ本を選び出すことは、その叡智をもってしなければ、中々大変! 我らはそんな、困った時代に生きているのである。江戸期も明治期も遠い昔、さながら異国のようにさえ思えてくる。それ故に立命の師、運命の師を希求し、その教え、その指導を受ける必要がある。これを、言わずもがなと言わせてほしい。

 但し、それと同時に、自らの行動によって逆境すなわち苦労、労苦、試練という授業料を払わなければ、タダでは教えてはもらえない。せっかく教えてやろうと忠言、忠告をしてもらっても、これがまさに良薬は口に苦し、忠言耳に逆らうのだ。

 ミワラ〈美童〉は逆境という授業料を払わなければ、タケラ〈武童〉は修羅場という血税を納付せずして、決して人間らしい笑顔にはなれぬ。活きた朝を、迎えることはできない。行動なきお勉強やお祈りをいくら重ねたところで、来る日も来る日も、来る朝来る朝、千振を舐めた猫のような顔よろしく、まさしくそんな猫顔人間に{変化|へんげ}してしまうことだろう。

令和2年11月22日(日) 活きた朝 4:24
{美童名|みわらな} ワタテツ
学年 門人

令和2年11月22日(日)号
一学 43【ワタテツの然修録】立命期のミワラ〈美童〉が修養すべき事(運命期のタケラ〈武童〉を知る)『離島疎開13』

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A.E.F. Biographical novel Publishing
Akio Nandai
Volume 1 to 12
VIRTUE KIDS
VIRTUE is what a Japanized ked quite simply has,painlessly,as a birthright. A.E.F. is an abbreviation for Adventure, Ethnokids , and Fantasy.

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== 東亜学纂のe伝記小説 ==
冒険・幻想、そしてミワラ〈美童〉
『亜種記』 全12巻 順次発刊
著者 南内彬男(なんだいあきお)
発行 // AeFbp // 東亜学纂
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