EF ^^/ 後裔記 第2集 第24回
一、想夏 …… 立命期、最後の一年 (14)
エセラの足が、港を向いた。
目は、港越しに、海を見遣っている。
空が、次第に灰色を濃くしてゆく。
海は、つれない。
もう、真っ黒だ。
ほのみが、まるで真っ黒い海から隠れでもするかのように、エセラの腕に顔をピッタリとつけて、両手でその頼りない腕をギュッと握り締めている。
家路につくには、谷川沿いに峠の坂道を上って行かなければならないが、どうもそっちのほうに足が向いてくれない。
ほのみも、早く帰ろうと言うでもなく、ただエセラの腕にすがっているだけだった。
やがて……。
ほのみの唇が、かすかに震える。
そして……。
その口が、やっと開かれた。
「ねぇ。
今日のウメキ先輩、怖かったね」
「そうかァ?」と、エセラ。
「うちぃねぇ。
ぜんぶ言えんじゃけぇ」と、ほのみが、ほっぺたを膨らませながら言った。
「どんな話だったっけぇ?」と、エセラ。
するとほのみが、ウメキの真似をして言った。
「活きた時間は、朝だけだ。
人々が寝静まってからでないと活動しない異常な連中が大きな顔をしているが、それは、ただ臭いだけの粗大ごみだ。
自分を大きく見せようとするから、臭いと書く。
{放|ほ}ったくられた粗大ごみは、まともな人間の生活を脅かす。
穢れが拡がり、ついには、その穢れが腐りながら人間社会に蔓延する。
人間が人間であり続けるためには、朝に生きなければならない。
朝が弱いなどと{戯|たわ}けたことを言うやつがいるが、それはもう、己が粗大ごみになってしまった証拠だ。
もはや穢れ、ただ腐りゆくだけの肉なのだ」
暫し、沈黙だけが過去に送られた。
エセラが、言った。
「じゃあ、早く寝なきゃな」
「うん。
トモキ、早く寝かしつけなきゃね」と、ほのみ。
「じゃあ、よろしくぅ♪」と、エセラ。
「よろしくじゃないよ。
お兄ちゃんは、うちを寝かしつけてくれんといけんのんじゃけぇねッ!」と、ほのみ。
「そんな日課、あったかなァ」と、エセラ。
「罰です」と、ほのみ。
また、ほっぺたを膨らませている。
「ん?
バツ……ってぇ?」と、エセラ。
「うちを置いて、仕来りの旅に出ようって企てっとたでしょ?」と、ほのみ。
「それは、おまえの勘違いだ。
でも、どうしてそんな勘違いをすることになったんだァ?」と、エセラ。
「素直に認めないところは、指導者の素質ありだね。
でも、いつか孤立するんだから。
うちが、いつまーでーもお兄ちゃんを大好きでおる思うとったら、大間違いなんじゃけぇね」と、ほのみ。
どうやら、どうあっても、その不可思議な疑いは、晴れそうにない。
家に帰ると、そこは、お祭り騒ぎだった。
「どこで道草しょったんねぇ!
このクソ忙しいんにからァ!」
玄関の引き戸を開けるや否や、ばァばのキンキン声が飛んできた。
「まるで、引っ越しみたいじゃね」と、ほのみ。
「残念じゃが、だいぶ違うねぇ。
夜逃げ家でやっと、六〇点かねぇ」と、花子ばァば。
声はいつものばァばの調子だが、顔は、いつになく凛々しく見える。
しかも、えみみもめろんもトモキも、文句一つ言わず、ばァばの指揮に従って、テキパキと動いている。
こんなに忙しいのに、母ゆか里の姿はなかった。
「ほらァ!
やっぱ旅に出るんじゃん!」と言って、ギッっとエセラの顔を睨むほのみ。
「ほんまじゃ……」と、{惚|ほう}けた顔で、エセラが言った。
「ほんまに、なんにも知らんかったん?
絶対お兄ちゃん、長生きできるわァ!」と、呆れた顔になったほのみが、言った。
実際、一体全体何が起きているのか、エセラには皆目見当もつかなかった。
そんな棒立ちのエセラを構ってくれる者は一人も居らず、そのうちばァばが、苛立ったような口調で言った。
「エセラ!
おまえは、明日の朝が早いんだから、自分の支度だけして、サッサと寝なさい。
戸締りは、おまえに任せたからね。
ちゃんと、考えにゃいけんでぇ!
空き家になるんじゃけぇね。
窓には板を打ちつけるとか、玄関の引き戸にはツッカエ棒をして床下から外に出るとか。
それ、日の出までにやらんと、間に合わんのじゃけぇね。
解っとるん?」
(この顔のどこが、解っとる顔に見えるんだか……)と、エセラは惚けたままの頭で何気に思ったが、ほのみが物まねしたウメキ先輩の言葉が、ポッと脳裏に浮かんでくるのだった。
「人間が人間であり続けるためには、朝に生きなければならない……」
エセラは、意味も解らないまま、自分の旅支度をはじめた。
2024.5.25 配信
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発行 Ethno Fantasy 東亜学纂