EF ^^/ 然修緑 第2集 第22回
一、想夏 (21)
門人学年 エセラ ({美童|ミワラ}・{齢|よわい}十三)
「息恒循」齢 立命期・少循令・鐡将
ついに、独り家を出た。
どうやら、これが仕来りの旅になりそうだ。
いよいよ、陽明先生の生き様を、学ばなければならない。
怪我も病魔も、挫折の理由にはならない。
そこは、今どきのぼくらでは、想像が及ばない。
今どきは、病気と闘えば、{褒|ほ}め{讃|たた}えられる。
でも、戦乱の世では、まさに戦うことが最優先であって、怪我や病魔の{類|たぐい}と闘っている暇などない。
ただ、戦いのために苦痛に堪え、歯を食い縛って{凌|しの}ぐ日々……。
陽明学は、寺学舎でも学んでいる。
でも、自ら書を求めて読んだのは、これが初めてだ。
必要に迫られて……かな。
進士に及第した陽明先生は、土木工事の監督に任命され、地方に{赴|おもむ}く。
彼は、作業員の配置に兵学を取り入れるなど、見事な成績を挙げる。
これの感嘆した当地の将軍が、彼に褒美として金貨を呈したが、もちろん彼は、これを辞して受けなかった。
この将軍は、彼が幼い頃から知る名将で、この将軍から宝剣を授かる夢を見たほどだった。
その夢が、現実となる。
将軍は、金貨を辞した彼に、宝剣を贈ったのだ。
彼は、感激した。
夢は、まさに霊感だったのだ。
こういう霊感体験が、彼にはいくつもある。
ところが、この{誉|ほま}れのなかで既に、怪我と病魔の生活が始まっていたのだ。
彼は、この工事の間のある日、馬から落ちて吐血していたのだった。
以後、これが原因であろうと思われる病に苦しめられる。
顕著な発病は、その落馬事故から二年後のことだった。
咳が止まらなくなり、薬やお灸に頼る日々が始まった。
この年、齢は僅かに三十。
病に{臥|ふ}せっているさなか、次の任務が下る。
司法官という激務だ。
気力旺盛の彼は、医師からの医薬療養を断り、己を鍛え、自らの自然治癒力に賭けた。
でも、その賭けは外れた。
ついに翌年、彼は、泣く泣く養生を請う願書を提出し、官を休まねばならぬ事態となってしまった。
彼は、その願書に、素直な自反の言葉を残している。
「先民(先代の人びと)言うあり。
忠言耳に{逆|さから}うも行に{利|よろ}し、良薬口に苦きも病に利しと。
臣のこれ致せしは(病気になってしまったのは){即|すなわ}ち{是|こ}れ医者の{逆耳|ぎゃくじ}の言を信じずして、口に苦きの良薬を{畏|おそ}れ{憚|はばか}りしの{過|あやまち}なり。
いまこれを悔ゆと{雖|いえど}も、それ{能|よ}くすべけんや」
このとき陽明先生、齢三十一。
ときまさに、{而立|じりつ}の秋。
ところが逆に、{而倒|じとう}の秋となり、故郷に舞い戻ることに……。
屈辱と後悔で押し潰されそうだったが、故郷の山紫水明が、彼の心を優しく懐に包み込んでくれたのだった。
彼は、道家の養生法を学び、洞窟のなかで療養するなかで、洞窟を出ては山紫水明に浴し、当地の学士と散歩をしながら学を論じ合った。
特に最初の一年間、老荘道家と仏説の自修に力を入れる。
ここで若き陽明先生は、何を学んだのか。
そして、その学びを、己の心の中に、どのように修めたのか。
人はみな、自分なりの欲望や思想を持って生きている。
それと同時に、自分でも気づかない確固たる意志を隠し持っている。
それは、自分が生きる意義を確かめたいという本能に他ならない。
これを解き、答えを発見しようとするもの……それが、理性だ。
この問題は、如何なる知識や理論も、及ぶところではない。
理性は、難しい問題を扱う。
知識や理論は、研究したことを纏めて、ただ組み立てるだけの作業に過ぎない。
例えば、親子・兄弟・親族・隣人・{朋友|ほうゆう}・世間と、どうやて親しくし共に平和に生きるか。
これは、理性が扱う難しい問題だ。
対して、道徳や信仰を研究して、それらの知識や理論を纏めて体系的に組み立てる作業は、理性が扱う問題に比べれば、実に簡単だ。
平和に生きることが如何に難しいかということを解ってもいない人間には、道徳や信仰を学ぶ資格などない。
道徳や信仰を研究して、本当に有益な道徳や信仰を生み出せるのは、大学の研究者などではなく、実際に親子・兄弟・親族・隣人・{朋友|ほうゆう}・世間との関係に心を傷めている人びとなのだ。
逆に、資格を持っていない、代わりに権力だけ持っているような為政者が、これをどんなに学ぼうとも、実現の期待をひと{欠片|かけら}も持てないような、お粗な政策を立案することしかできないだろう。
重要な地位にある人々は、資格すら持たない学問で自分を善く魅せようとする前に、己の心の中の真実……心境を、正さなければならない。
陽明学で言う……{格物|かくぶつ}。
物は己、格は正すことだ。
正さなければならない心境とは……例えば、利己的打算、先入観に凝り固まった偏見、{伏在|ふくざい}する強迫観念、誤解したまま{放|ほ}ったかいsている理論、知らず知らず身に着いた生活の悪習慣、あらゆる虚偽や不徳……まだまだ続く。
この作業無しに、どんなに机上で理想社会の設計を周到精細に立案してみたところで、万が一それが実施されたとして、一体全体、どれほどの人がその理想社会に満足することができるだろう。
恐らく……その答えは、ゼロ人。
2024.6.16 配信
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発行 Ethno Fantasy 東亜学纂