EF ^^/ 後裔記 第2集 第27回
一、想夏 …… 立命期、最後の一年 (17)
急いていると、不思議と時間が経つのが早い。
間もなく夜明け……エセラは、床下の蹴込み板を外して外に出た。
エセラは、海暖かく地熱い夏という時令が好きだった。
夜明けの冷涼な空気を吸いながら、峠道を下る。
ダキの浜にも、漁港にも、寄らなかった。
漁港の朝は、早いのだ。
ふと、父さんから聞いた話を思い出す。
「父さんが産まれたところはな。
{美童|ミワラ}たちはみんな、知命するために躍起になって、息恒循を学んでいたもんだ。
知命とは、立命のことだ。
立命してからの人生が、運命だ。
人生は、七つの循令からなる。
どの循令も、七年間だ。
幼循令、少循令……ここまでが、立命期。
ここで{美童|ミワラ}は知命し、{武童|タケラ}とならねばならん。
それで晴れて運命期……青循令、若循令、反循令、格循令、徳循令と続き、天命を全うして命が尽きる。
この循令の各年にも、名前がある。
一年目が{飛龍|ひりゅう}、続いて{猛牛|もうぎゅう}、{猫刄|みょうじ}、{嗔猪|しんちょ}、{悪狼|あくろう}、{石将|せきしょう}、{鐵将|てっしょう}だ。
一年は、七つの時令に移り変わる。
始まりは、暑い盛りの{想夏|そうか}。
続いて{起秋|きしゅう}、{執冬|しっとう}、{烈冬|れっとう}、{結冬|けっとう}、{敲春|こうしゅん}、{還夏|かんか}だ。
一週間は、曜日と同じ七日だが、恒令と呼ぶ。
最初は日曜日の{七養|しちよう}、続けて{自修|じしゅう}、{内努|うちゆめ}{五省|ごせい}、{自反|じはん}、{六然|りくぜん}、そして土曜日の{人覚|にんがく}だ。
一日も七つの刻があり、それを伝霊と呼ぶ。
午後の九時ヵら午前三時までの{腹想|ふくそう}からはじまる。
続けて午前三時から四時までが{頭映|ずえい}、午前四時から五時までが{体敲|ていこう}、午前五時から七時までが{然動|ぜんどう}、午前七時から午後六時までが{烈徒|れっと}、午後六時から八時までが{考推|こうすい}、そして午後八時から九時までの{気養|きよう}で一日を終える。
呼吸も、七つで完結する。
完結した{一刻|いっとき}の生を、{唯息|ゆいそく}と呼ぶ。
ひと呼吸目が{想|そう}、続けて{観|かん}、{測|そく}、{尽|じん}、{反|はん}、{疑|ぎ}、{宿|しゅく}。
そのひと吐息が、{吐無|ぬむ}だ。
{吐無|ぬむ}さえもない天地自然のことを、{造化|ぞうか}という。
無……すなわち、造化。
造化より尊いものは、この世にはない。
命の営みとは、大宇宙の営みのことだ。
伝霊が月、恒令が地球、時令が太陽、循令が銀河だ。
だから、おまえの頭の中には、大宇宙がある。
こんなことは、覚えなくともよい。
おまえの遺伝子が、心得ている」
(なるほど……遺伝子かァ)などと、エセラは何気に他愛もないことを考えながら歩いた。
そして、地獄の館の前に差し掛かった。
エセラの心が、頑なに叫んでいる。
「今のぼくは、今までもぼくとは違うのだ。
確固たる目的がある。
大事な使命を完遂するために、その一つひとつの目的を叶えていかなければならない。
ぼくは、揺るがない。
絶対に……」と。
ところが、もっと頑な想いが、エセラの肉体に働いていた。
まるで、体中をロープでぐるぐる巻きにされて、そのロープをぐいぐいと誰かに引っ張られてる感じだ。
梅子の{仕業|しわざ}に違いなかった。
今では見慣れた一番奥の真っ暗な部屋……梅子が、ゴロンゴロンと畳の上を転がっている。
細身の幼い身体なのに、乳首だけが薄ピンクに輝いている。
心を乱されるとは、まさにこういうことなんだろうと、エセラは咄嗟に思い到って目を{背|そむ}けた。
その転がる{様|さま}は、見事にリズミカルで美しかった。
まるで、地獄へと転がり落ちる{黄泉|よみ}の旋律のようだ。
そのときだった。
姿見の中で、多勢の怒声が挙がっている。
濡れそぼった{甲冑|かっちゅう}姿の若い男たちが、幾人も幾千万も湧いて出て来る。
エセラが、悲鳴を上げた。
その一瞬、エセラの身体をぐるぐる巻きに締めつけていたロープが緩む。
咄嗟、目の前に突進してきた丸いボールのようなものを両手で掴み、全能の力を込めて、それを鏡面目掛けて投げつけた。
敗残兵たちの血みどろの顔が、怒りから驚きの表情に変わる。
刹那、男たちはくるりと回れ右をして、姿見の奥へと消えていった。
鏡面にぶつけられたボールが、鏡台の上に載ったまま、揺れ動いている。
どうやら、怒っているようだ。
鏡台からドスンと落ちたボールが、ゴロゴロ転がってエセラの足元まで来ると、そのままエセラの顔のあたりまで浮上した。
すると、鼻と鼻を擦り合わせながら、言った。
「あんたの人間恐怖症ってやつのことさ。
ほんと、生きてなきゃ大丈夫みたいだね。
それは良かったんだろうけどさァ。
ちょっとは気を遣いなさいよねぇ!
あたい、死んじゃってはいるけど、女の子なんだからさァ。
女の子の顔を鏡に叩きつけるなんて、最低なんだからねッ!
こういうとき、うちが生きとる女の子じゃったら、どうするん?
{償|つぐな}いに、なんかくれるよねぇ?
なにくれるん?
タダでここ出れる思うたら、大間違いなんじゃけぇね。
わかっとん?
このすっとこどっこい!」
エセラは、すっとこどっこい呼ばわりに{相応|ふさわ}しい素っ頓狂な顔をして、暫しその場に立ちすくんでいたが、俄かに何かを思いついたように、目を輝かせて言った。
「わかったッ!
おまえ、お{供|そな}えが欲しいんだねぇ?」
梅子の頭が、我が身に戻ってニッコリ笑った。
2024.6.15 配信
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発行 Ethno Fantasy 東亜学纂