EF ^^/ 然修緑 第2集 第7回
K2694年 想夏
エセラ
立命期 少循令 鐡将
警醒から学ばねば、自覚は邪知に堕ちる
知命に残された猶予は、あと一年。
十四の年から運命期に入り、晴れて{武童|タケラ}となる。
この一年で{仕来|しきた}りの旅を終えて知命しなければ、{美童|ミワラ}のままで、運命期ではなく、無知運命期となる。
先人の教え……古教は、現世の危機を救う{警醒|けいせい}である。
それを自覚するが、学問。
{聖驕頽砕|せいきょうたいさい}の戦いで国が亡んで以降、日本人は、学問をしなくなった。
{日|ひ}の{本|もと}の国を被保護国として合法的に占領したアメリカも、敗戦の混乱に乗じて北方の領土を不法占拠したロシアも、日本人に国土を荒らされて軍国主義という邪知にに目覚めてしまった中国も、密かに{強|したた}かに学問に努めて、独立国家を堅持している。
亡んでしまったものを、今更どうこう言っても仕方がない。
聖驕頽砕とは、よく言ったものだと思う。
聖戦と称して、有色人種の独立運動を助ける。
確かに、戦い始めた当初は、亜細亜の東や南東の民族から、「独立の兄」などと呼ばれて、その胸には正義があったんだと思う。
ところが、単純な日本人は、周りの民族から祭り上げられて、{驕|おご}り高ぶり、その胸の中の心の根が腐り、{頽廃|たいはい}してしまった。
{挙句|あげく}、{玉砕|ぎょくさい}。
{終|しま}いに、亡んだ。
一部の{為政者|いせいしゃ}たちの、{自業自得|じごうじとく}。
国民は、大きな迷惑だ。
日の本の国は、軍国主義に走って滅び、中国も、同じ道を辿ると言われている。
ここで、不思議なことがある。
東洋哲学は、なぜ崇高なのか。
言わずもがな、中国の古教だ。
日本にも、兵書の闘戦教、吉田松陰の詩、教育勅語と、中国の古教にも引けを取らない警醒の哲学がある。
なぜ、荒廃して亡んだ日の本や、亡びゆく中国の{古|いにしえ}の時代に、{斯|か}くも崇高な哲学が生まれたのだろうか。
優れた為政者たちが{鎬|しのぎ}を削っていた維新・明治の時代……どんな時代だったんだろう。
彼らは、こぞって、王陽明の教えを学んでいた。
王陽明が生きたのは、中国の明代後半。
明朝を開いた太祖の{朱元璋|しゅげんしょう}は、まったく一介の野人から身を起こして天下人となった。
{志那|しな}二十四史だか二十五史だかの中でも、極めて珍しいケースだ。
まさに、希代の始まり。
朱元璋は、貧農の生まれで、皇覚寺という貧乏寺の修行に出されて、小僧となった。
早い話が、山寺の乞食坊主だ。
この頃、宗教の{匪賊|ひぞく}、教徒を中心に貧しい者たちが決起して、大動乱を起こす。
いわゆる、{紅巾|こうきん}の賊だ。
朱元璋は、この動乱に身を投じ、たたき上げのさなか師につき、{孜々|しし}として書を読み、猛烈に学んで道を修め、教学や文化に大きく貢献するに{止|とど}まらず、終には皇帝の座に着くのである。
でもまァ、人も世も、いずれは{緩|ゆる}む。
驕り高ぶって亡んだ日本人も、例に漏れない。
自分の座を守ることに気を持って行かれると、周りの誰もが信じられなくなる。
疑心暗鬼が度を増すと、戦友や親友をも暗殺する。
そうなると、己の周りの取り巻きは、性根の腐ったイエスマンばかりとなる。
斯くして希代明朝は、次第に衰退してゆく。
王陽明は、その中期、衰退への混乱がやや小康している頃に現れた。
時代は、{俄|にわ}かに物情騒然、乱世へと転がり落ちてゆく。
そんな中、王陽明は、匪賊の{叛乱|はんらん}の鎮定に派遣され、宮廷に戻されると、{奸臣|かんしん}たちの迫害を受けながら、毅然として哲学の重要性を主張した。
その学問や弟子たちへの教示は、叛乱鎮定で派遣された戦地や、宮廷の{帷幕|いばく}を縫って行っていた。
まさに、活学だ。
この時代も、現代と変わらず、学問だの教育だのといったものは、{官吏登庸|かんりとうよう}試験の科挙に合格するための功利的にして暗記型の勉強に過ぎなかった。
そんな時代背景にあって、王陽明は、失われた道徳を回復すること、人格を磨くこと、身心ともに学ぶことを、講じ続けた。
これが、世にいう聖賢の学だ。
しかも、これを健常な身体でおこなったのではない。
若いころから肺病を患い、{病躯|びょうく}を押して血を吐き吐き、戦で負傷して包帯を巻き巻きしながら、終に足腰が立たなくなってからも、講じることを止めなかった。
王陽明は、優れた為政者であり、優れた将軍であり、優れた哲学者であり、優れた詩人であり、優れた書家であり、親孝行で心優しい家父長でもあったのだ。
2024.2.23 配信
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発行 Ethno Fantasy 東亜学纂