家族
エセラ、十一歳。
書くと、頭の中を整理できる。
だから、書いているだけ。
これが後裔記だとは、誤解しないでほしい。
ぼくの頭の中には、息恒循の教学書で学んだ数々の断片が{放|ほ}ったくられている。
依然、大きな努力はせず、{己|おの}の命はこの浦町に生き、この家に宿り続けている。
平時の子どもなら、それでも合格だ。
でも{美童|みわら}は、天命の定めと、その流に{順|したご}うて生きる。
そして、学徒学年から門人学年に進級すると、立命期の大仕事に取り掛かる。
この世のすべての常識を疑い、町も家も{棄|す}て、旅立つ。
そして、立命期最大の難所、知命。
覚悟、確信、大努力を、己に誓う。
しからば、やっと運命期。
命が尽きるまで、真実を探り、闘い続ける。
ふと、あることに気づいてしまった。
腰窓に腰掛けているのは、ぼくの幽霊だ。
いつも、振り返ろうとしてそうはせず、左右を見ようとしてもそうはせず、身体を揺らそうとするがそうはせず、{躊躇|ためら}いを大事そうに保ちながら、ただそこに居るだけだった。
腰窓がある部屋の壁は、{法面|のりめん}の{朽|く}ちた{間知石|けんちいし}で、薄暗くて、{靄|もや}っていて、窓から陽の光が射すと、いつもキラキラと{砂埃|すなぼこり}が舞っていた。
そのお陰で、ぼくの幽霊は、まだ陽が落ちていない夕方から、慌てるふうもなく、腰窓に腰掛けて、得意の躊躇いのポーズをしていられるのだった。
今日の帰宅は、ぼくが一番で、ぼくの幽霊が、嬉しそうに、いつものように躊躇いながら、出迎えてくれた。
玄関のほうから、人の声が聞こえる。
次に帰ってきた家族は、妹たちでも、母さんでも、当然父さんでもなかった。
母ゆか里の母親、花子ばァばだった。
ドカドカッと、いつもの足音。
薄暗い裏部屋に顔だけ覗かせると、ぼくの目を見るでもなく、独り{言|ご}ちるように、言った。
「変だねぇ。
教学に飽きて帰って来るような子でもないし。
どんくさいけど、誠実。
要領は悪いけど、{一途|いちず}だからねぇ。
まァ、あんたの心配は、後にしましょう。
やることやっとかにゃあ、あんたの母ちゃんに怒られるけぇねぇ」
花子ばァばは、そう言い終わるや{否|いな}や、手際よく掃除を済ませ、台所に立った。
台所は、法面に掘って造られた防空壕を塞いだ木の蓋の先にあった。
この家、入り口から入るとすぐに板床の台所があり、そのすぐ奥が法面になっている。
その法面を仕切っている壁の法面側の狭い廊下のような部屋が、裏部屋だ。
その仕切り壁の手前に畳敷きの部屋があり、大きな仏壇が据わっている。
その和室の手前にも廊下のような板床の通路があり、その前面に掃き出し窓が{嵌|は}まっている。
その掃き出し窓の端っこには、五右衛門風呂とポッチョン便所の粗末な建屋が増築されていた。
文明期と言われた昭和、平成、令和の時代も、この野島水軍の{傭兵|ようへい}たちが隠れ住んだ谷川沿いの峠の集落は、アメリカの保護国になる前の独立国だった古き良き時代の生活スタイルを。頑なに護ってきたのだ。
……と、そう言えば聞こえはいいけど、実際は、不便極まりない。
そうこうしているうちに、妹たちが帰ってきた。
{煩|うるさ}い、騒々しい、面倒臭い、迷惑極まりないやつらだ。
「ほら、食べな」と、花子ばァば。
「いらない」と、ほのみ。
「なんでーねぇ!」と、ばァば。
「だって、ふたっつしかないじゃん」と、ほのみ。
「めろんは、まだ小さいからねぇ。
これは、あんたとえみみのぶんよねぇ」と、ばァば。
「めろんはァ?」と、ほのみ。
「バナナ、持って来とるよねぇ」と、ばァば。
「ふーん」と言いながら、おはぎを頬張るほのみ。
そこで、なんで、「兄ちゃんはァ?」という言葉が、出てこないんだろう。
めろんがバナナってことは、ぼくとトモキにはァ?
孫が五人、口を開けて待っているんなら、普通、おはぎが二個とバナナが一本ときたら、次にアンパンが2個とか出てきてもいいもんだ。
でも、我が家は、そうはならない。
ぼくがまだ幼いころ、花子ばァばは、よく言ったものだ。
「男はねぇ。
{貰|もら}い{癖|ぐせ}がつけちゃいけんのよねぇ。
欲しいもんがあったら、自分でどうにかせにゃあ。
自分の欲しいもんだけじゃない。
ほのみやえみみが欲しがるもんも、大事な人らがしてほしいことも、世のため人のために、どうにかせにゃあいけんことを、他人を頼らんと、自分でどうにかせにゃあいけん。
ほじゃけぇ、あんたにゃおやつはないんよねぇ。
トモキも、あんたくらいになったら、おやつはなしじゃけぇ」
まるで、貧に堪え忍ぶ下級武士の大お母さまだ。
ばァばだけじゃない。
下級武士本人……ではなく、父さんが言った言葉も、覚えているものは、すべて貧困幕末志士そのものだった。
「読んでつまらんなら、やめろ。
やってもつまらんなら、それもやめろ。
なんでつまらんか、わかるか。
志がないからだ。
無駄に命を削るなということだ。
聞こえるだろう。
どくっ、どくっ、どくっ。
命が削れる音だ。
すうはァ、すうはァ。
いっときも休まず、命を削り続ける。
その証が、生きてるってことだ」
そんなことを言われても、幼いぼくが解るはずがない。
ぼくは、訊いた。
「でーぇ、どうすればいいの?
読むの、やめちゃってもいいの?」
父さんの答えは、こんなふうだった。
「実際に、自分がやってみるために、最小限必要なところだけ読めばいい。
自分がやりもしないことを、読む必要はない。
読んだなら、記憶に残す前に、先ずは実践しろ。
糸電話の作り方の本を読んだら、作り方を覚える前に、実際に作ってみろということだ。
自分を、大事にしろ。
そうすれば、他人から言われなくても、家族や親族、仲間や、延いては敵対する人間たちにも、思い遣りを向けることができる。
相手が振り上げた{矛|ほこ}を、{止|とど}めさせることができる。
戈という字に、止めさせるという字。
書いてみろ。
武士の武の文字は、そういう意味だ。
それを学ぶものが{美童|ミワラ}で、それを実践する大人が、{武童|タケラ}だ」
ヒト種は、三つの亜種に分化して、そのうちの二つの亜種が、敵対している。
文明{民族|エスノ}と、ぼくら自然{民族|エスノ}だ。
そして、その自然{民族|エスノ}も、武の心を重んじるぼくら座森屋の血筋の一族と、文明{民族|エスノ}の根絶やしを目論む鷺助屋の血筋の一族の二派に、分かれてしまった。
何れ、この二派も分化して、敵対する日が来るのかもしれない。
ぼくは、何を学びたいんだろう。
実践したいことを学ぶんだとしたら、何をやりたいかさえはっきりすれば、学ぶことで悩む必要はなくなる。
ぼくは、何をやりたいんだろう。
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発行 Ethno Fantacy 東亜学纂