傍観者
エセラ、九歳。
二年ぶりに、後裔記を書く。
あれから、二年……。
二年経ったぼくは、やっぱり真相のことを考えていた。
ほらまたァ!
ぼくの頭の中に、真相と題した映像が、映し出されている。
人は、無力だ。
その無力さは、考えれば考えるほど、怖ろしくなる。
鳥たちや、野山の小動物たちよりも、身体の自由が利かない。
浅瀬の小魚たちよりも、考え方が、子どもっぽい。
鳥たちも、小動物たちも、小魚たちも、自分より大きなものや強いものから自分や家族を護るための身体の自由がある。
そのための気構えも、たっぷりだ。
ところが、ヒトはどうだ。
ひとたび、野山なり海なり、生身の自然の中に放り出されるや、おろおろ、ぐるぐる、壊れた掃除ロボットが延々と零の字を描くように、{戯|たわ}けて愚かな堂々巡りを続けるしか能がない。
今日もまた、ぼくは、空に居る。
そして、空の上から、ぼくを眺めている。
おや、どうしたのォ?
突然、駆けだした。
まァ、{放|ほお}っておこう。
彼は、知ってるんだから。
ヒトは、戯けでも、愚かでもないことを。
彼は、凧を追う子どもたちのように、顔をあお向けたまま、走っている。
太陽の表を隠していた雲も、動き出した。
すると、急に彼は、立ち止まってしまった。
雲が、太陽から離れてしまうのを、待っているのだ。
その雲を、随分と長く仰ぎ見ていたことにふと気づいた彼は、その視線をやっと、地上に戻した。
{大神社|おおかむやしろ}に通ずる石畳の参道。
そこは、浦町よりもちょっとだけ人通りが多い、いつもと変わらぬ港町の風景があるだけだった。
雲は、カタツムリの動きにまで気を遣っているようなゆっくりとした動きで、彼が歩いてゆくその脳天を追っていた。
そして雲は、太陽から完全に離れ、旅人になった。
ぼくは、空でも、ひとりぼっちになった。
ぼくは、彼になった。
浦町に近づくにつれて、道は、恥ずかしそうに、徐々に狭くなっていった。
右手には、古い民家。
左に曲がる。
そこにも、古い民家。
それをなんどか繰り返すと、谷川沿いの峠の上り坂になった。
その家は、家族が増えるたびに、粗末な増築をしていた。
貧を形にした、見事な造作物だ。
掃除が、行き届いている。
玄関らしき構えは、どこにも見当たらない。
ぼくは、古びた木製の引き戸を、開けようとした。
でも、動かない。
ぼくは、思い出した。
力づくで引かないと、その戸は、開かないのだ。
でも今日は、そんな力は、湧いてこない。
だからぼくは、いつものように、濡れ縁に足を掛け、縁側の木枠の掃き出し窓を引き開けて、家の中に入った。
そして、次に家に戻って来る家族のために、出入口の引き戸を開けておく。
内側からは、引き戸の枠を、両手の掌でガッチリと掴めるのだ。
家の中に目を移すと、視界が、カメラのレンズを覗いたときのように、徐々に絞られてゆく。
床、壁、天井……。
薄暗く、まるで、夕暮れに墓場を見渡して浮かび上がってくる墓石のようだ。
窓は窓で、知らない故人を、映し出している。
そんな墓石や故人を、カメラのレンズが、一つひとつ、映し出してゆく。
木枠の小さな腰窓に、そんな故人の一人が、腰をかけている。
カメラのレンズを、じっと見返しているように見えた。
気になったけど、ぼくの目は、その男から視線を逸らしてしまった。
ぼくは、気づいていた。
その腰窓が、この星の本性を{抉|えぐ}り出すことを。
真夏の真夜中に吹雪く、地獄のよな豪雪。
締まり雪が、腰窓を{羽交|はが}い絞めにする。
真冬の夜中には、空襲よりも激しい豪雨に襲われる。
その豪雨は、斜面の残雪を、容赦なく殴りつける。
流れ出た雪解け水が、洪水となって、腰窓を襲う。
そして今、腰窓が、また何かを映し出した。
白く美しい海鳥だ。
キラリキラリと輝き揺らめきながら、その目が、{艶|なま}めかしく微笑んでいる。
彼女は、白と黒を纏った修道女だった。
そして、ぼくに向かって、手招きをした。
ぼくの記憶を、そそのかそうとしているのだ。
こっちにおいで。
ぼくの大切な記憶を、奪おうとしている。
そうなのだ。
書くことによって、ぼくの記憶は、修道女に奪われてしまうのだ。
ぼくが書く後裔記が長続きしない本当の理由は……。
それを書いてしまうから、その記憶を修道女に奪われて、また書きはじめてしまう。
だからもう、結論は、書かない。
本音も、書かない。
そうすれば、ぼくは、これからの人生を、本音で生きることができる。
次は、学徒学年。
一番、……。
明日から、ぼくの名前は、そこで呼ばれる。
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発行 Ethno Fantacy 東亜学纂