エセラ、別れの空
エセラ、七歳。
一年ぶりに、後裔記を書く。
ここの海は、{男神|おがみ}のような荒くれたところもないし、女神のような神秘の{煌|きら}めきもない。
港でも町でも、気遣いを覚えるような人通りを見たことがない。
だからぼくは、この港町から出たくない。
先人先達の後裔記を諸書として編まれた亜種記を読むために、ぼくは、漢字を学んだ。
でも、学んでしまったがゆえに、今までスラスラと書いていた後裔記を、書けなくなってしまった。
なんか、ぼくの書くことすべてが、幼稚だなって思えて、何も書けなくなってしまったのだ。
でも、ぼくらが書かなければ、後裔記は、途絶える。
ぼくらの中の一人でしかないぼくが書かなかったからといって、ぼくらが書かなかったことにはならない。
でも、それは、間違いだと気づいた。
ぼくらと、ぼくら一人ひとりは、同一なのだ。
ぼくら一人ひとりが、ぼくらなのだ。
ぼくは、この町の港から見える海が、好きなんだ。
空も。
鳥たちも。
やたらと人{懐|なつ}っこく海面から浮き上がる動物たちや、やたらとしつこく海面を飛び跳ねる魚たちも。
とうさんの記憶は、ほとんど残っていない。
でも、とうさんの言葉は、ぼくの心に刻まれて、それは、決して、一生消えることはない。
とうさんは、言った。
「今日から、とうさんの一族の後裔記は、おまえが書くんだ。
とうさんも、今のおまえと同じ歳のときに、父親から、そう言い渡されたんだ。
おまえの心と{身体|からだ}には、二つの亜種の血が流れている。
それゆえにおまえは、これから先、幾多の逆境に遭遇することだろう。
だが、そこで与えられた労苦のすべてが、おまえだけに与えられた武器となる。
おまえに、わが民族のすべてを託す。
これからどうするかは、おまえの自由だ。
おまえが野垂れ死んでも、誰の{所為|せい}でもない。
おまえ以外の誰かに、責任があるわけでもない。
すべての結果の原因は、おまえにある。
これから先に起こる出来事は、すべておまえが起こしたことだ。
その結果のすべてが、おまえ独りで決めたことなのだ。
とうさんは、この港から見る海が、好きだった。
だが、もう忘れる。
思い出は、邪魔になるからだ。
だから、おまえのことも忘れる。
おまえも、父のことは忘れろ。
おれはもう、おまえたち家族とは、他人なのだ」
とうさんは、学問には{煩|うるさ}かったけど、後裔記のことを言われたのは、それが最初で最後たっだ。
ある日、ぼくは、港にいた。
そしてぼくは、空に舞い上がった。
空から、ぼくを眺める。
まるまった背中。
ぼくは、それを見かねて、彼の前方、仰角のして四十五度くらいの空間に回り込んだ。
すると、ほどなく、彼は顔を上げて、ぼくがいるほうを見上げた。
彼は、歯を食いしばっていた。
冷めかけた溶岩のような、赤黒い、死にかけた{醜|みにく}い生命体が{塊|かたまり}になったような物体に見えた。
彼は、見えなくなった父さんの後ろ姿を、追っていた。
そしてぼくは、そのとうさんが好きだったと言った空に、浮かんでいる。
ぼくは、とうさんのような{武童|タケラ}になりたかった。
とうさんのところへ、行きたい。
とうさんと、一緒に行きたかった。
ぼくはもう、ぼくじゃない。
今、{遥|はる}か下の港に立ちすくんでいるのは、彼だ。
ぼくじゃない。
ぼくは、カモメだ。
空から生きものたちを見ていると、普段{何気|なにげ}に見過ごしている生きものたちの何もかもが、実に不可解に思えてくる。
その行動も、その習性も、いま{足下|そっか}でぼくを見上げている彼も、まったく不可解で、実に不愉快だ。
でも、毎年ひょっこりと律儀にこの港に戻って来るカモメとツバメ、そして、野を駆けるウサギと、田畑の{縁|へり}を掘り進むウリ坊は、例外だ。
だってやつらは、神秘的だから。
不可解の真相は、神秘だ。
だからやつらは、不可解ではなく、真相なのだ。
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発行 東亜学纂
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A.E.F. Biographical novel Publishing