知らなかった愛読書の意味
K2694年 想夏
エセラ
立命期 少循令 鐡将
良き師友をもち、{座右|ざゆう}には愛読書。
人は、好きな物を好み、集めたがり、見たがり、触れたがり、食べたがる。
座右の書も、読みたがるようでなければならない。
しかも、その読みたがる内容は、精神的価値が高く、人間の真理を豊かに{湛|たた}えているようでなければならない。
「愛読書を持つ」ということは、先ず、その座右の書を読むに値する人間とならなければならない。
心構えだ。
心には、絶えず理想像を抱き持っていること。
{私淑|ししゅく}する先人、{先達|せんだつ}、先輩、あるいは同輩を持っていること。
常に、心の中に生きた哲学を吹き込む姿勢でいること。
この心構えがあってこそ、座右の書は、愛読書となる。
浦学舎では、このようなことを学んでいる。
少年少女学年、学徒学年、門人学年、学人学年と進級していくが、学んだ通りに生きている学友を、一人も見たことがない。
学ぶたびに、必ず、ふと思うことがある。
*これ*を怠ったから、ヒト種の分化と退化は、止まらないのだ……と。
愛読書も、そうだ。
人びとは、愛読書を持たなくなった。
雑書ばかりを読み、雑学を集めては自慢し、座右の書を持たず、{現|うつつ}は{疎|おろ}か書の中でも、私淑するような人に出逢うことはない。
自由を誇りながらも社会主義に{陶酔|とうすい}し、己の優位性ばかりを吹聴し、他人や書の中の先人先達から学ぼうなどとは、サラサラ思っていない。
心が、何も欲していないからだ。
これは、人間として、明らかな欠陥だ。
退化の証し。
だから、大成する人間が、{居|い}なくなってしまった。
それ以前に、愛読書の意味すら知らない。
言葉や文字の本来本当の意味など、それこそ、今やなんの意味も持たない。
今さら学問をしたからといって、この現実を変えることも、分化と退化を{止|とど}めさせることも、出来はしない。
じゃあぼくらは、なんのために学問をしてるんだろう。
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発行 東亜学纂
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A.E.F. Biographical novel Publishing