#### 申すサギッチ「プレゼン力で上達する要領。弁証法に学ぶ」然修録 ####
島を出る? その方法は? 計画は? 計画とは発明と同じで、必ず、「*どんな方法がある*?」から始まる。そこでは、{荒唐無稽|こうとうむけい}なアイデアが味噌、{即|すなわ}ちプレゼン力! 西洋の弁証法から、*要領の神髄*を学ぶ。
少年学年 サギッチ 少循令{猛牛|もうぎゅう}
一つ、学ぶ。
スピアの後裔記。送別会のこと。それ自体は、いい。
でも、決まっているのは、次の、スピアの言葉だけ。
「ぼく、この島出るから。おまえ、どうする?」
……と、{訊|き}かれてもだッ!
では、問う。
いつ、どこから、何に乗って、どこへ、どのようにーぃ??
唯一、「誰が?」は、言わずもがな、我ら{美童|ミワラ}四名。
{正|まさ}に、無計画!
計画は肝要、発明に同じ……と、思う。
そうそう、それそれ♪
オオカミ先輩が{放|ほ}ったくっている**あれ**、島の{子等|こら}の手作りゲームから学んだ、発明発想法♪
その知識を、今こそ〈計画〉の発明に、活かすべきときではないのかッ!
なので、オオカミ先輩の代わりに、その活かし方について、ちょっとだけ、考えたり調べたりしてみた。
{主題|テーマ}は、{況|いわん}や!
オオカミ先輩も{拘|こだわ}り続けている〈あれ〉……。
「要領よくやる!」だ。
《 「どんな方法があるか」的な性格に変われ! 》
「これが、おれの{遣|や}り方だッ!」で、通るのは、精々最初の一回か二回だ。そうそう何度も、通用するもんじゃない。それを、何十回も押し通そうとしている先輩たちが、多いような気がする。
{何故|なぜ}島の{子等|こら}は、ゲームを何十回とやっているうちに、だんだん要領が解ってきたのか。それは、ゲームというものの性質が、{所謂|いわゆる}一つの〈型にはまった仕事〉だからだ……と、思う。
繰り返してやっているうちに、その型を理解し、その型にはめようとする。その型にはめさえすれば、要領は、よくなる。じゃあ、その型を使えば、おれらがこれから{挑|いど}むべき旅も、要領よく進めることが出来るのだろうか?
無論、その答えは、{否|いな}!だ。
目的や目標が変われば、〈型〉も変わる。
さて。
その目的が変わっても、また直ぐに、要領の良さを発揮する者が{居|い}る。かと思えば、またまた、いつまで{経|た}ってもダメダメで、要領を得ないやつも居る。この違いは、{何|なん}なのだッ!
それが、そいつの〈クセ〉{即|すなわ}ち、性格というものだ。
子等のゲームは、その〈クセ〉が、よく表れていた。
オッサンを{追|お}ん出せたら、「やった、やった、よかったァ♪」で、以上終わり! これが、性格というものだ。この性格を変えなければ、何事も、要領よくやることなんか出来ない。
「もっと効果的にオッサンを追ん出すには、他にどんな方法があるだろうか?」と、そこに興味を示すような性格に変わらなければ、問題が起きた{或|ある}いは予測されるときに、次の一手を打つことが出来ない。
その一手を打てない限り、その仕事の上達はない。上達しないということは、いつまで経っても要領が悪いということだ。
ここで判るように、「他にどんな方法があるかッ!」と、そこに興味が向いたら、次は、そのありとあらゆるその〈他の方法〉を、並べてみる。考えられる他の{遣|や}り方や方法を、出来るだけたくさん、並べてみるというこいとだ。
ここで、留意するべき大事な点がある。
{既知|きち}の型に、{囚|とら}われないこと。
言い換えれば、「{荒唐無稽|こうとうむけい}なことも、遠慮せずに並べろッ!」と、いうことだ。デタラメだからとか、現実性がないからとか、そんな理由で並べるのを{止|や}めてしまったら、結果は、元の{木阿弥|もくあみ}になってしまう。進歩も上達も、望めない。
理屈は、確かにそうかもしれないけど、ここが、日本人にとっては、なかなか難しい。その理由は、昔の一万円札を見れば、直ぐに判る!
「和を{以|もっ}て{尊|とうと}しとなす」と、教えた人……聖徳太子その人が、長年、一万円札に君臨して、我が国のすべての大人たちに、「和だぢょ! 和だぢょ!」と、言い続けてきた。
だから、突飛なことや、外れたことを嫌う……と、そんな国民性になってしまったのだ。
では、一万円札を使ってこなかった西洋の人たちの国民性は、どんな感じなんだろう。対比して、上達……要領について、考えてみよう。
西洋人たちは、{斯|こ}う考える。
人間なんだから、一人一人の考えが違うのは、当然だ。その考えを実現、押し通すためには、相手を説得、納得させなければならない。それがダメなら、闘争しか道は、なくなってしまう。だから、説得に全力を、傾けるのだ。
そこで、その説得のためには、{新奇な着想と工夫|アイデア}が、必要となる。{冗談|ジョーク}を飛ばすのも、そのアイデアの一つだ。なので、{駄洒落|オッサンギャク}も、実は、{満更|まんざら}捨てたものではないのだ。
{故|ゆえ}に、ほかの人と同じような方法を並べていたのでは、説得など出来るはずがない。そこには、アイデアが必要……即ち、荒唐無稽な考えが、{鍵|カギ}となるのだ。
西洋人は弁証法を好み、日本人は談合を好む。
日本人は、口では弁証法的な遣り方だと言い訳しながら、好んで談合という方法を選ぶ。ほかの方法を、並べてみようとは、思わない。
対して西洋人は、その談合を、嫌う。何故か。
ここで、西洋人たちがやっている本当の弁証法というものを、知る必要が出てくる。
先ずは、学校で習う弁証法とは……。
{矛盾|むじゅん}が生じて対立してしまった二つの考え方がある。この矛盾を解消し、対立を解決するための新しい意見を、提示する。矛盾して対立している両者が、それぞれ〈正〉と〈反〉。提示された解決策の意見が、〈合〉だ。
では実際、西洋人が好む*本当の*弁証法というのは、{如何|いか}なるものなのか。
〈合〉は、矛盾して対立する〈正〉と〈反〉の妥協でも、{折衷|せっちゅう}案でも、{況|ま}してや{譲|ゆず}り合いでもない。
〈正〉とも〈反〉とも全く異なる次元に立ち、両者の矛盾も対立も自然に解消してしまうような、奇抜で意外なアイデアのことだ。
この、最も寛容なところを理解もぜず、学校でも教えないので、弁証法と称して、妥協・折衷・譲り合いという、生かさず殺さずの談合を繰り返している……と、いう{訳|わけ}だ。
これでは、西洋人が日本人との商談を嫌うのも、無理はない。
この〈合〉の{新奇な着想と工夫|アイデア}を考えるときに、注意しなければならないことがある。
この注意の説明は、難しい。
一般的な言葉で、〈理性〉というものがある。弁証法のアイデアを{勘案|かんあん}する場合、この理性を働かせて熟考してはならない。
理性は、人間の本性であり、善悪を判断する思考が働く。アイデアとは、善悪を判断することではない。善悪を判断の基準に置いてしまうと、せっかくの有効な着想やその工夫の案が、振るい落とされてしまう。
{寧|むし}ろ、〈手段を{択|えら}ばず〉!なのだ。
こう書くと、如何にも狩猟民族的な好戦的な思考法のように思えてしまう。農耕民族の日本人には、{馴染|なじ}めない。だから{敢|あ}えて、弁証法を正しく理解することを{避|さ}けているのかもしれない。
禅に、{悟性|ごしょう}という言葉がある。
{寧|むし}ろ日本人には、「この悟性で{以|もっ}て勘案熟考せよ!」と言ったほうが、受け{容|い}れられやすいのかもしれない。
禅での悟性の意味は、悟りを開いたり理解したりする資質のことだ。{然|しか}し、この悟性という言葉は、一般的に使われることはない。
なので、ここで敢えて、一般的な意味を、定義してみる。
〈総合的で、包括的で、しかも普遍的な、万能の理解力〉
う、んーん! もう一つ、しっくりこない……(アセアセ)。
まァまァ、そいは{兎|と}も{角|かく}。
では、主題に対する結論。
要領とは、この理性(善悪の判断、即ち平凡)と悟性(奇想天外、或いは荒唐無稽)を、適宜、有効的に、使い分けながら駆使することである。
……みたいな♪
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「教学編」朝7時配信……次回へとつづく。
「自伝編」は、教学編の前夜7時に配信です。
_/_/_/ 『息恒循』を学ぶ _/_/_/
その編纂 東亜学纂
その蔵書 東亜学纂学級文庫
その自修 循観院