MIWARA BIOGRAPHY "VIRTUE KIDS" Virtue is what a Japanized ked quite simply has, painlessly, as a birthright.

東亜学纂学級文庫

『息恒循』を学ぶ

然修録103(ミワラ<美童>学級の学問日誌)R3.8.8(日) 朝7時配信

#### サギッチの座学「奇怪な病魔! {怠慢|たいまん}な健康欲と、{危|あや}うい権勢欲」{然修録|103} ####


 『{何故|なぜ}、{お偉いさん|エリート}は、道を誤るのか』 《怠慢な健康欲が、エリートたちの適応力を、{蝕|むしば}む》《危うい権勢欲が、エリートたちの血を、{惑|まど}わせる》
   少年学年 サギッチ 少循令{猛牛|もうぎゅう}

 {会得|えとく}、その努力に{憾|うら}みなかりしか。

      **{主題と題材と動機|モチーフ}**

   《 {主題|テーマ} 》

 何故、{お偉いさん|エリート}は、道を誤るのか。  

   《 その{題材|サブジェクト} 》

 怠慢な健康欲が、エリートたちの適応力を、蝕む。
 危うい権勢欲が、エリートたちの血を、惑わせる。
 
   《 この主題と題材を選んだ{動機|モーティブ} 》

 オオカミ先輩の後裔記……*未知*なる{理解を絶する狂気|クレイジー}との遭遇!
 文明{民族|エスノ}の掘り屋の技師長が、自ら「クレイジー!」と断ずる彼ら文明界の{お偉いさん|エリート}たち……。
 高い教養を身に着けているはずのエリートたちは、何故血迷ってしまうのか。これは、文明の{奴|やつ}らに限らず、その原因を、知っておく必要がある……と、思った。

      **題材の{講釈|レクチャー}**

   《 怠慢な健康欲が、エリートたちの適応力を、蝕む 》

 息恒循が、この怠慢な健康欲に、警告を発している。

 恒令の一日目(日曜日)、七養……その一つ目。
 「時令(季節)に{順|したご}うて{以|もっ}て元気を養う」
 夏は夏らしく、冬は冬らしく、天候に逆らわず、季節を肌身で感じる生活をする。

 恒令の四日目(水曜日)、五省……その三つ目。
 「氣力に{缺|か}くるなかりしか」
 物事を成し遂げようとする精神力は、十分であったか。

 イギリスの社会学者で、警句と逆説の大家、そして詩人でもある{G・チェスタートン|Gilbelt Keith Chesterton}(一八七四~一九三六)の論説……その痛切な社会批判を読んで、直ぐに、以上の二つの自反材料が、頭に浮かんだ。
 その*痛切*な論説が、これだ。

 「医者の話の誤りは、健康の観念と養生の観念とを結びつける点にある。健康は養生とどういう関係があるのだろうか。
 むしろ健康は不養生と関係がある。
 (中略)
 健康は、みずから努力する必要のない、医者が与えてくれるもの、あるいは薬屋で買う薬品によって受動的に到達する状態であるというような幻想を与えてはならない。
 健康は、創造的な生活方法に依存するのであり、変化してやまない環境から絶えず起こってくる予想できない挑戦に対して、人間がどのように反応するかということに係るのである。
 安全・快適を{是|こ}れ求め、苦痛と努力をひたすら避けようとする過度の関心は、経済的・生物学的に危険性を有するものであり、事実、社会的・民族的自殺にひとしいということを認める勇気がなければならない。
 個人の適応力を高め、遺伝的悪化を防ぐ方法を発見しないならば、将来われわれは生命の健全さと、その多くの価値を犠牲にして、ただ命を延ばそうとして、いたずらに一の保護法から他の保護法へと{狂奔|きょうほん}するにすぎぬことになるであろう」

 痛切……とは、解説の必要のない論法のことだと思う。
 逆説……とは、まだ「逆説」という言葉が無かった明治時代、この逆説のことを、「*奇怪*に{以|もっ}て{反|かえ}って道理ある説」と、言っていたそうだ。

 「自然治癒力の退化の原因は、自力養生力の低下が原因だッ!」と、いうことだ。
 他力……薬や注射に、頼り過ぎる。{即|すなわ}ち、自然力の鍛錬{陶冶|とうや}を、{怠|おこた}ったということだ。それが{故|ゆえ}に、身体、生理、精神、心理、性理、命理が、悲劇を{蒙|こうむ}る。
 健康のための真の妙薬とは、養生のために、その鍛錬陶冶の材料となるものでなければならない。それ即ち、病弱、愚鈍、貧乏、多忙といった、{所謂|いわゆる}逆境と呼べる境遇。
 その*逆境*こそが、正に、G・チェスタートンが言う、「変化してやまない環境から絶えず起こってくる予想できない挑戦」なのだ。

 これを、植林された樹木の健康に、{譬|たと}えることができる。銘木を育てるためには、苗木を、荒れた土地に植え、しかも、見るからに{犇|ひし}めいているような、密植でなければならない。
 これ正に、逆説!
 この逆を、元に戻そう。
 苗木を、よく{耕|たがや}され、培養された{沃土|よくど}……即ち、豊かな、肥沃な土壌に、{疎植|そしょく}するということ。
 で、その結果は、どうなのだろう。
 なんとーォ!!
 ゆったりと、密を避けて植えてしまうと、直ぐに、ダメになる。
 最初は、すくすくと伸びる。
 でも、*ひ弱*で、虫害や風水害で、{脆|もろ}くも、直ぐに、枯れてしまう。無事に育って伐採してみると、その切り口は{粗笨|そほん}……荒くて、スカスカで、木材としては、「役に立たん!」と、相成る。
 これも、痛切な逆説……奇怪な道理だと思う。

 人間も、幼いころに甘やかされたり、{放|ほ}ったくられたりして、{躾|しつけ}を放棄されて育ってしまうと、大人になったときに、斯う言われてしまう。
 「頭を使え! 考える頭が無いんなら、黙ってろッ! 手を出すなッ! まったく、使いものにならん{奴|やつ}だ」……と。
 斯う言われた次の瞬間から、何をやっても、周囲のすべての人から、何も言われなくなってしまう。これと、まったくよく似た{場合|ケース}がある。長年の修行が実って、認められた瞬間だ。
 認められたのか、{将又|はたまた}見放されたのか……それを判別できない人間のことを、「馬鹿」と呼ぶ。言わずもがな、馬や鹿には、まったく迷惑な話だ。

   《 危うい権勢欲が、エリートたちの血を、惑わせる 》

 名誉と、権力……。
 大人に近づくに{順|したが}って、その**欲**が、俄かにそして、時に矢庭に、増大してゆく。驚くべきことに、才能、知力、成功などを、努力や幸運によって掴んだ人たちほど、その欲望は、強く{漲|みなぎ}る。
 女性にしてみても、日本では、大奥という社会組織。大陸中国では、則天武后などの高位な婦人たち……等など。残念ながら、「女性は例外♪」とは、どうにも、言えそうにない。

 {順|したが}ってというか、国家という組織も、国民という個人も、この〈欲〉に{冒|おか}された政治により、強く支配されるようになる。
 すると、この〈欲〉を欲する国民たちもまた、猫も杓子も、*政治*屋になりたがる。
 片や、人というものは、不思議と、{斯|こ}う言うのだ。
 「誰が、あんな奴を選んだんだァ! 大臣ってのは、馬鹿ばっかりじゃないかァ!」……と。
 その実……実際に、その大臣になてみると、なんと漏れなく、その*馬鹿*になってしまう。この*漏れなく*が、言い過ぎではないということの、いい{論的証拠|エビデンス}が一つ、ここにある。

 その*ここ*とは……敗戦後の政界。
 遂にというか、「やっちまった!」というか、{兎|と}にも{角|かく}にも野党が、政権を取ってしまった。飛ぶ鳥を落とす勢いで、中国共産党に大挙して挨拶旅行をしていた社会党……その、俗にいう〈片山内閣〉のことだッ!
 権精力の象徴の**大臣**という呼称を、毛嫌いしていたその野党の面々……国民はみな、「大臣っていう呼称は、これで、無くなるなーァ!!」と、誰もが、信じて疑わなかった。
 事実、野党当時の彼らも自ら、そんな声を挙げていたそうだ。
 ところがだッ!
 実際に政権を取って、大臣に就任してみると、「あら不思議ーぃ!!」
 みんな、{嬉々|きき}として、「おれは、大臣だぢょ! わたしは、大臣なんですからねぇ!」と、まァ、なんだか知らないけど、みんながみんな、得々として大臣たる自分を誇って、自慢に余念が無いという顛末だったみたいだ。
 まァ所詮、「その程度のもんだ」ってことを、自ら、ご親切に、証明して見せてくれたという{訳|わけ}だ。

 では、この**大臣**!
 一体全体、本来、どういうものなのだろうか。
 それは、飽くまで政治の世界に限っての話だけれども、大臣とは、国民の中の{選|え}りすぐりのエリートたちを代表する、究極の*エリート*でなければならない。なので、政治屋のことを、昔から……「聖職」と、呼ぶのである。
 {何故|なぜ}聖職と呼ばれるかと言えば、その職分が、国民生活と直結して、多大な関係を持っているからだ。
 なので、当然だけど、世の中が乱れれば乱れるほど、大臣たるは、鍛え抜いて体得した{勝|すぐ}れた精神脳力を有している……それ正に、**{曲者|くせもの}**でなければならない。
 (そんな{凄|すご}い人が、政治屋になんか、なるはずないじゃん!)と、常識ある人なら、そう思って、当然だ。
 それでも、アメリカの著名な政治学者、ジェームス・バーナムという人は、共産主義を一旦は肯定する構えで徹底研究し、結果的に、共産主義に絶望したそのとき、彼の著書『マキャヴェリアンズ』の中で、こんなことを論じている。

 「即ち、理由の{如何|いかん}を問わず、ある社会のもっとも確実な現実の相違は、その社会のエリートの相違である。
 その社会がどういうエリートを持っているか、そのエリートがどういう実質を持っているかによって、きまる。
 政治学とは、このエリートを{如何|いか}に組織するかの学問であり、革命とは、そのエリートの社会に{於|お}ける急激な交代・変化を、言うのである。
 それは、エリートがエリートたるの使命や責任を忘れて、私欲{安逸|あんいつ}に{耽|ふけ}り、その実力を失って、世人の{軽蔑|けいべつ}や反感をかうに至る時に、必ず起こるものである。
 真の政治的自由とは、このエリートに対する正しい批判、及び反対を行う精神や力を、国民が持つことである」

 今どきの政治屋が馬鹿ばっかなのは、子どものおれにだって判るけど、このバーナムさんの論考を読んで、如何にも平易で解り{易|やす}くて、妙に納得できるのは……はてさて、喜ぶべきか、{嘆|なげ}くべきなのか……。 
 
      **{蛇足|スーパーフルーイティ}**

 本当は、オオカミ先輩の後裔記で、一番気にかかったのは……。
 「*未知*なるジジッチョの、不可思議な狸寝入りだァ!」……みたいな(ポリポリ)。
 オオカミ先輩は、その狸寝入りを、瞑想と表現していた。瞑想と言えば、*ひと頃の*ヨッコ先輩の、{十八番|オハコ}!
 でも、寺学舎の座学で、その瞑想が説かれることはなく、代わりに題材にされたのが、{成唯識論|じょうゆいしきろん}と、{莫妄想|まくもうそう}なのだった。
 莫妄想は、それなりに、然修録で論じ合った。
 でも、唯識のほうは、その言葉を記憶に留める程度の浅い学びで、{未|いま}だに立ち往生している。
 ……何故、誰も、取り上げないのか。
 その理由は、恐らく、たぶん、絶対にだけど、おれらが大の苦手とする……あれ。
 小難しいからだァ!
 ……と、思ったので、これを主題にすることは、パスすることにした。
 (ポリポリ♪)と、頭の中で、頭を{掻|か}くおれ……是まさに、(アセアセ)。

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Ver.1,Rev.9
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