MIWARA BIOGRAPHY "VIRTUE KIDS" Virtue is what a Japanized ked quite simply has, painlessly, as a birthright.

東亜学纂学級文庫

『息恒循』を学ぶ

ミワラ<美童>の座学日誌 No.108

#### マザメの座学日誌「ボンクラ頭の構造と、理想的な判断の方法」{然修録|108} ####

 『なんで、あたいの頭はボンクラなのか』 《なんでいつもいつも、判断を誤るのか》《思考の{遣|や}り方とか方法とか原則とかって、あるのォ?》
   学徒学年 マザメ 少循令{悪狼|あくろう}

 {会得|えとく}、その努力に{憾|うら}みなかりしか。

      **{主題と題材と動機|モチーフ}**

   《 {主題|テーマ} 》

 なんで、あたいの頭はボンクラなのか。 

   《 その{題材|サブジェクト} 》

 なんでいつもいつも、判断を誤るのか。
 思考の遣り方とか方法とか原則とかって、あるのォ?

   《 この主題と題材を選んだ{動機|モーティブ} 》

 ワタテツ先輩の然修録は、「{斯|こ}う成れ!」式だ。
 当の本人は、そうなるための手順を、懇切丁寧に説明しているつもりでいる。「その努力に{憾|うら}みなかりしか」と問えば、即答で「ない!」という返事が飛んでくること、間違いなし。
 読ませる相手が、ワタテツ先輩と同等の*ラベル*なら、それもよし。でも、あたい(ら)のラベルには、〈ボンクラ頭〉と書いてある。「へーぇ。すごいじゃん! そんなことが、できるんだーァ♪」で、終わりである。
 しかもだ。前にも書いたような気がするけれど、取り上げる例は、偉人ばかりだ。真似の出来ない域に達した人を、偉人って言うんだよねぇ?
 考えてもみなよッ!
 それって、{前人未到|ぜんじんみとう}ってことでしょーォ?! ……ってことはさァ。その偉人だって、前人だろォ? だったら、その偉人も、超えなきゃなんないってことじゃん。無理ムリ無理ムリ。できっこないじゃん!
 できたとしても、まァ精々、{人跡未踏|じんせきみとう}のほうかなァ……(ポリポリ)。

 {兎|と}に{角|かく}さァ。あたいが、どう頑張ったってさァ。二回に一回は、判断を誤るんだ。想いは、悪くないと思うんだけど、考え方が、悪いんだろうね……きっと。{挙句|あげく}、{妄想|もうそう}さ。その妄想も、最近じゃあ、バリエーションが増えてきちゃってさァ。
 ぅんーなもんでさァ♪
 「なんであたいの頭は、ボンクラなんだろう」……っていう自問に、自答したって{訳|わけ}さ。
 解ったーァ?! 

      **題材の{講釈|レクチャー}**

   《 なんでいつもいつも、判断を誤るのか 》

 田んぼ、線路、踏切……よくある田舎の風景。遮断機なし。赤色の信号灯が、点滅。ベルも、鳴っている。こういう踏切で、よく電車と車の衝突事故が、起こるそうだ。
 見通しは、最高に良い。威勢のいい若いダンプトラックのお兄ちゃん運転士さんが、踏切に突入。思いは突っ切りだったに違いないが、実際は、線路の上で立ち往生!
 事情聴取……。
 「充分に余裕はあったんだ。でも、あの時に限って、よりによって跳ねちゃってさァ。エンストしやがったんだッ!」
 {或|ある}いは……。
 「{凸凹|でこぼこ}はしてるけど、いつもなら、普通に渡れるんだ。それが、あの時に限って、よりによって変なところに{嵌|は}まり込んじゃってさァ。動けなくなったんだッ!」
 ……みたいな。

 言ってみれば、運が悪い。仕事で一日に何度かその踏切を渡るとしたら、そんな跳ねたり嵌まったりっていう突発的な悲劇は、たぶん何百万分の一くらいの確率の問題だ。
 その確率は、一人当たりで見れば**{稀|まれ}**なのかもしれないけれど、そんな確率を持った同じような人が、一日に何十人も何百人も車で通過するとなれば、その稀は、*多発*ともなり得る。
 あたいには、運転技術の知識なんて、まるっきし無い。でも、精神面での起因なら、ある程度判る。少なくとも、事故を起こした本人以上に……。
 踏切では、早く渡ってしまいたいという気持ちが、どうしても働いてしまう。歩いていてもそうなのだから、車だったら、更にその車が大きければ大きいほど、その気持ちは増大するはずだと思う。
 だから、アクセルをいつもよりいっぱい踏み込んだり、スピードを落とさずに(ギアを落とさずに……とも言う?)凸凹を突っ切ろうとしたり、いつもならやらないことを、*よりによって*やってしまうんだと思う。

 そんな{訳|わけ}で、確率で表すことができるくらいの頻度で、踏切事故が自分に降りかかって来るってこと。だったら、(今まで一度も踏切事故を起こしたことが無いから、そろそろ踏切ん中で立ち往生してもいいころだよなッ!)……って考えるのが、普通なんじゃないのかなーァ?!
 だって、宝くじを毎年買ってる人は、同じことを思うでしょ? (そろそろ、当たってもおかしくない頃なんだけどなーァ)……みたいな。
 踏切事故の調書を取ったおまわりさんたちの談によると、総じて事故を起こした人は一様に、(今まで一度も踏切で危ない経験なんかしたことはないから、今度もなんの問題も無く、うまくいくはずだッ♪)と、そんなふうに考えて判断を下してしまっていたらしい。
 これを、宝くじに当てはめてみると、変なというか、真逆の理屈になってしまう。(今まで何度買ってもぜんぜん当たらなかったから、どうせ今回も当たらないだろう)……と。
 心理学者の談によると、{寧|むし}ろ、(こんどもダメだろう!)って考える人のほうが、{博打|バクチ}好きな人が多いんだそうだ。

 洞察と呼ぶほど{大袈裟|おおげさ}ではないにせよ、踏切を渡る人も、宝くじを買う人も、必ず、{何某|なにがし}かの予測をしているということだ。その結果が悪ければ、「判断を誤った!」と、いうことになる。では、{何故|なぜ}、そんなふうに判断を誤ってしまうのだろう。
 (こうしたら、こうなるだろう)と、これが、踏切で事故を起こした人たちの予測だ。そこには、次に考えるべきこと、(こうなるかもしれない!)という予測や判断が、抜け落ちている。これが足りなかったり欠落したりしていると、事後を起こす確率が、グーン!と、上がってしまうのだ。
 では、何故、抜け落ちたり、欠落したり、足りなかったりするのだろうか。答えは、簡単だ。そんなことを考える時間が、無いからだ。じゃあ、どうすればいいのか。その答えも、簡単だ。
 一時停止!
 {溜|た}めだね。「{無闇矢鱈|むやみやたら}に行動を起こしたり、考えなく続けて突っ切ろうとすると、{怪我|ケガ}をする」……と、いうことのようだ。ではでは、溜め……一旦停止して、何をどう考えて、(こうなるかもしれない!)を、予測すればいいのか。

 一に、これは、誰もがやることだけれど、列車が迫って来ているかどうかを、確かめる。
 二に、踏切内の凸凹の状態や、雨で滑り{易|やす}くなっていないかなど、路面の状況を、確認する。
 三に、踏切の先に、充分に渡りきるだけのスペースがあるかどうかを、確かめる。
 四に、それらを総合して、余裕をもって渡るだけの時間があるかどうかを、判断する。

 ……なるほど、これだけのことを考えようと思ったら、一時停止しないと、無理だよねーぇ?!
 何事についても、正しい(安全な)判断をするには、正しい情報を得なくてはいけない。次に、その正しい情報を、正しく処理する。そのためには、どうすべきかを判断するための知識が、必要になってくるという訳だ。
 でも実際は、踏切にしたって宝くじにしたって、{兎角|とかく}人間には、自分の都合のいい方に話を持っていってしまう傾向がある。〈都合がいい=自分の好み〉って訳で、ここでは、潜在意識の〈好き嫌い〉が、無意識に働いている。
 潜在意識の{蘊蓄|うんちく}は、心理学者の著書に譲るとしても、{兎|と}にも{角|かく}にも、結局は、確固とした定義がある訳ではなく、自分では意識していない意識って訳だから、この〈自分では意識していない、はっきりしない*好み*〉というやつも、潜在意識の{仕業|しわざ}に違いないのだ。

 食物アレルギーなんかも、この潜在意識の仕業なんだそうだ。心療内科などでは、次のような話を、よく聞かされるという。

 「鶏肉を、『絶対に食べられない!』と言う人が居る。ちょっと口に入れただけでも、ダメ。スープの{出汁|ダシ}に入っているだけでも、ダメ! ちょっとでも口にしようものなら、直ぐにジンマシンが出たり、吐いたりしてしまう。
 こういう人は、大抵幼少のころに、ニワトリに{悪戯|いたずら}をするか何かをして、こっぴどく突っつかれて痛い目に{遭|あ}わされた経験を、持っている。でも、本人の記憶には、もうそんな経験は、{欠片|かけら}も残ってはいない。
 ところが、潜在意識の中には、「ニワトリは嫌いだッ!」という意識していない意識が、しっかりと刻まれている。
 だから、こういう人が、仕事で何かの情報を集めると、もしその過程で、鶏肉やニワトリとの関連が臭ってくると、無意識に、(この仕事は、なんかイヤっていうか、なんか、気乗りしないなーァ!?)と、思ってしまうのだ。
 {即|すなわ}ち、食物アレルギーのみならず、仕事の面においても、正しい判断ができなくなってしまっているという訳だ。無論、当の本人は、そのことに、なんら一切、気づいてはいない。
 その〈気がついていない〉というところが、この無意識の症状の最大の特徴なのだ」

 ……みたいな。 
 
   《 思考の遣り方とか方法とか原則とかって、あるのォ? 》

 人間、忙しいと、しみじみと人の話に耳を傾けたり、じっくりと本を読んで、先人の語録を心に{容|い}れたりと、そんなことは、{甚|はなは}だそれどころではなくなってしまう。これが、心を{亡|な}くすと書いて忙しいと読む{所以|ゆえん}でもある。
 これは、誰かが書いてくれていた佐藤一斉の『重職心得箇条』の受け売りなので、{委細|いさい}は省く。ただ、結局は、「忙しさのために大事なものを失ってしまうようでは、重役としての務めは、果たせん!」……と、いうことだ。
 では、その〈失ってはならない大事なもの〉ってのは、なんなんだろう。〈相〉……*みる*、という字の成り立ちのことも、誰かが書いてくれていたけれども、「木に登って、高いところから見る」という意味だから、{遥|はる}か遠くまで見渡すことができるという意味にもなるはずだ。即ち、見通しが利く……大所高所に立って、先が見通せるということだ。

 人間、この〈先を見通す力〉があって初めて、迷っている人や目先の利かない人に対して、教え導いて助けてあげることができるっていうものではないだろうか。だから、〈相〉という字は、*たすける*、とも読む。
 故に、迷える民衆を助けて幸福へと導く大臣の役目を背負った人物のことを、昔から中国でも我が国でも、「何々相」と呼ぶようになったのだ。
 その中国に{嘗|かつ}て、{諸葛亮|しょかつりょう}という偉大な軍師が、居りました。男どもは、『三国志』を読んでいるだろうから、ここでも、委細は省く。
 その代わりに、一つだけ。その〈亮〉という字。高いという字から口を取って、足を付けている。これも、高いところから見通すという意味で、*あきらか*、と読む。
 だから中国人は、今でもよく、手紙なんかの終わりに、「亮察を{請|こ}う」などと、書くのだそうだ。

 こんなふうに、どうやら東洋の政治学というものは、治乱興亡の道理を明らかにすることが本筋で、西洋のそれとは、{趣|おもむき}を異としているようだ。
 寺学舎で学んでいたころ、「然修録は、朝に書け!」と、よく言われた。これが実に、かったるい。でも、〈{暁|あかつき}〉という字の意味を考えると、(なるほどーォ)と、{頷|うなず}ける。
 夜の暗闇が、白々と明けてくるにつれて、静寂の中に、物の{文目|あやめ}やケジメが、見えてくる。即ち、物事の道理が、よく解ってくるという意味。
 〈暁〉という字は、*あきらか*、と読む。人間で言えば、若いころの暗闇の時代を経て、壮年や老年になってやっと、暁の時代を迎えるという訳だ。

 {序|つい}でにと言うか、漢字の蘊蓄を、もう一つ。
 〈了〉という字も、悟るという意味があって、*あきらか*、と読む。やっとこさで物事が明らかになってきて、人生の何某かが見えてきたとき、無念にもそのとき既に、生涯の終わりの時期を迎えているという訳だ。
 正に、{深甚|しんじん}とした字ではないか。だからこそ人間は、日々の〈考える〉という習慣を、{疎|おろそ}かにしてはならないということだ。では、その疎かにしないためには、日々時々、どんなふうに考えればいいのか……。

 一に、目先に{囚|とら}われず、長い目で見る。
 二に、物事の一面だけを見ないで、できるだけ多面的・全面的に観察する。
 三に、枝葉末節に{拘|こだわ}ることなく、根本的に考察する。
 
      **{自反|じはん}**
 
 はてさて。
 では、今までのあたいは、どうだっただろうか。
 何事も長いのが嫌いだから、手っ取り早く済ませてしまいた。だから、その何事のどれもこれもを、安易に済ませてしまう。故に、目先に捕らえられてしまって、一面しか見ることができていない。枝葉末節に拘って、ただ悩み、物事の本質を、見失ってしまう。
 ……やれやれ。
 これでは、正しい判断など、到底出来ようはずがない。問題が大きければ大きいほど、長い目で、多面的に、根本を見定めなければならないというのに……。

 あたいは、いつか、踏切の中で立ち往生して、死ぬなッ!
 
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