MIWARA BIOGRAPHY "VIRTUE KIDS" Virtue is what a Japanized ked quite simply has, painlessly, as a birthright.

後裔記と然修録

ミワラ〈美童〉たちの日記と学習帳

ミワラ<美童>の座学日誌 No.117

#### オオカミの座学日誌「科学的とそうでない事象が混在するこの世」{然修録|117} ####


 『この世、何事も科学的に解釈してはつまらぬ。 それは、{何故|なぜ}か』
 《善に{因|よ}って起こり、気和して生ず》
 《心の中も、始め種類なし?》
   学徒学年 オオカミ 少循令{石将|せきしょう}

 {会得|えとく}、その努力に{憾|うら}みなかりしか。

      **{主題と題材と動機|モチーフ}**

   《 {主題|テーマ} 》

 この世、何事も科学的に解釈してはつまらぬ。
 それは、何故か。

   《 その{題材|サブジェクト} 》

 善に因って起こり、気和して生ず。
 心の中も、始め種類なし?

   《 この主題と題材を選んだ{動機|モーティブ} 》

 動機も、クソもない!

 ムロー先輩の後裔記、**格物**より。
 以下、そのまんまーァ!!

 この世には、理屈では説明できない……というより、無理に科学的な{論的根拠|エビデンス}で切って{棄|す}てると*ツマラナイ*ことっていうのが、事実、少なくない。

 心は正すべきだが、この世の物事を{悉|ことごと}く科学的に正すべきではないと思う。

 そのことを{上手|うま}く表現した先人語録が、あった。
 うろ覚え……調べれば済むだけの話だが、今は収容の身。それでも、どうにか調べるのが、貧の精神……学問の神髄だ。
 だが、今日の事にはならん!

 ムロー学級八名、現在員六名。
 総力を結集して、その語録を、調べるべし!
 
      **題材の{講釈|レクチャー}**

   《 善に因って起こり、気和して生ず 》

 「{瑞応|ずいおう}の出ずるや。始め種類なし。善に因って起こり、気和して生ず」

 {王充|おうじゅう}の『{論衡|ろんこう}』の中にある語録。
 王充は、後漢の光武帝の時代の初期に活躍した学者だ。
 漢という時代……その、前漢。
 武帝が、儒教を国教の扱いにした。それが、後漢になり定着……{即|すなわ}ち官僚化し、「学者が、『論語』や『孟子』を批判するなど、もっての{外|ほか}!」という風潮と相成る。
 そんな時代背景で、この『論衡』は、思想や哲学を実証的に正しく認識、考察して、迷信の{類|たぐい}は、容赦なく批判するという精神が、貫かれているのだそうだ。
 そこで出て来た言葉が、瑞応の出ずるや{云々|うんぬん}。

 世の中に、めでたいことが起こる。その初めは、どういうものなのか。それは、簡単に区別できるものではない。〈瑞応=めでたい事象や反応〉というものは、否定の対象となるようなものではない。この瑞応というものは、善によって起こる。
 そして、気和して生ず……即ちそれは、突然生ずるものではない。{如何|いか}なる事象も、必ず{因|よ}って来たる原因とか由来とかいうものがある。
 因ってこの瑞応というものにも、瑞応らしい由来や因縁というものがある。即ち、善に因って起こり、そこから{湧|わ}いてきた色々な気が和して、生じたものなのだ。
 {順|したが}って、不吉な事象{然|しか}り、様々な災害にしても然り、原因も由来も因縁も無いものなど、この世には存在しない。必ず、因って来たる{所以|ゆえん}というものがある。
 ……と、王充は、言っている。

 その王充……。
 学者とは言っても、今どきの学者とは、かなり様子が違う。勝海舟の極貧の苦学には及ばないにしても、この王充の家も大そう貧しく、本を買うお金がないので、よく都の{洛陽|らくよう}にある本屋に行っては立ち読みをして、それで学んだらしい。

 日本でも、その昔、東京の本郷や神田神保町辺りに居並ぶ本屋で、そんな苦学生の姿を見かけることは、珍しくなかったらしい。今は、その本屋すら居並んではいないそうだけど……。
 それしにても、本屋で立ち読みするだけで学んだというのは、凄い! スピアのように、人並外れた記憶力を持った少年だったに違いない。

 その王充の著書『論衡』は、見識の高さで知られているそうだ。例えば、{孔孟|こうもう}の学問における見方や学び方……実証的にして、科学的。盲従的なところがない。批判にしても、{真摯|しんし}{且|か}つ真剣。
 正に、求道者だ。

   《 心の中も、始め種類なし? 》

 この世の中、始め種類なし……即ち、突然生ずるものなど、何一つない。如何なる事象も、必ず因って来たる原因とか由来とかいうものがある。
 原始仏教の{唯識|ゆいしき}では、この世の中のすべての事象を映し出しているのは、*心なのだ*と言う。ならば、心の中のすべての事象も、「始め種類なし」と、相成るはずだ。
 その、心の中とは……。

 鏡台の前に立つと、自分の鏡像が映る。
 自分が鏡の前に立ったとき、何を鏡に映すかは、自分で決めることはできない。自分の意思と関係無く、自分の姿を見ざるを得ない。即ち、鏡に映った己の鏡像というものは、*見ている*のではなく、*見せられている*のだ。
 それは正に、自分が関与することの出来ない事象。この世のあらゆる事象は、善に因って起こり、気和して生ず……ならば、この「己の鏡像を見せられる」という一瞬の出来事にも、当然**理**がある。
 その理のことを、〈{縁起|えんぎ}の理〉という。

 「鏡の前に立つ」という{縁|えにし}を得る。
 鏡像と、それを見る自分の視覚という二つの事象が、生じる。
 そこに、*思い*が生じる。
 「いつ見ても、平たい顔だなァ……」などと、思う。
 縁を得て、ある事象が生じ、思いが浮かんで、それが、言葉として発せられる。
 「{嗚呼|ああ}、情けない」……と。
 自分の{自我|エゴ}が、「自分は情けない」と、感じさせたのだ。

 整理してみよう。
 一に、縁を得る。
 二に、感覚が働く。
 三に、自我に思いが生じる。
 四に、自我が感じたことが、言葉となる。

 一と二は、万人に共通とも言えるが、三は三者三様で、四は色々だ。実際問題……{況|いわん}や! 要は、*思い*だ。
 この思いが、{貪|むさぼ}りや{瞋|いか}りといった{煩悩|ぼんのう}に支配されているようでは、話にならない。あらゆるものに憎しみを感じ、言葉は、{嘆|なげ}きや愚痴や罵声といったブラック系の色に、塗り{潰|つぶ}されてしまう。
 ここは、煩悩で{穢|けが}れた心で塗るのではなく、善の心で塗らなければならない。ところが、これがどうにも、難しい。何故なら、心が{濁|にご}りに濁っているからだ。、

 これが、己の心が織りなす〈この世〉のすべて……{所謂|いわゆる}小宇宙、一人{一|ひと}宇宙なのだ。

      **{自反|じはん}**

 おれの心の中の絵の具の色は、黒と灰色の二色だ。
 潜在意識にまで{透徹|とうてつ}するような強い願望と熱意の持続なくして、おれに未来はない。

 努めて明るく、努めて良い方向に考え続ける……。
 動機、善なりや。
 私心、なかりしか。

 息恒循、恒令の四番目……「五省」の頭文字、シ・ゲ・キ・ド・ブが、俺の腐った頭に、ポカンと浮かび上がった!
 {是|かく}の{如|ごと}く。

 〈シ〉 至誠に{悖|もと}るなかりしか。
 誠実さや真心、人の道に{背|そむ}くところはなかったか。

 〈ゲ〉 言行に恥ずるなかりしか。
 発言や行動に、{過|あやま}ちや反省するところはなかったか。

 〈キ〉 氣力に{缺|か}くるなかりしか。
 物事を成し遂げようとする精神力は、十分であったか。

 〈ド〉 努力に{憾|うら}みなかりしか。
 目的を達成するために、惜しみなく努力したか。

 〈ブ〉 {不精|ぶしょう}に{亘|わた}るなかりしか。
 怠けたり、面倒くさがったりしたことはなかったか。 

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