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_/ 3 /_/ 然修録 第1集の子どもたち
寺学舎 美童(ミワラ) ムロー学級8名
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未来の子どもたちのために、
成功するための神話を残したい……
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_/ 1 /_/ 『亜種記』 電子書籍
亜種に分化した子どもたちの闘戦物語
全12巻、第1~2巻発売中
_/ 2 /_/ 「後裔記」 メールマガジン
亜種記の諸書、子どもたちの実学紀行
週1回、夕方5時配信
_/ 3 /_/ 「然修録」 メールマガジン
亜種記の諸書、子どもたちの座学日誌
週1回、夕方5時配信
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※電子書籍編集のための記号を含みます。
お見苦しい点、ご容赦ください。
#### ツボネエの座学日誌「与えられるだけの{屈辱|くつじょく
}の人生から脱出せよ」{然修録|127} ####
『ただ与えてもらうだけの人間から、世のため人のために何かを与え続ける人間に変わるには、どうすればいいか』
● 与えてもらうだけなら{乞食|こじき}、不幸の象徴! じゃあ、幸せになるためには、どうすればいい?
● 瞬時に未知の人格を創造して、{咄嗟|とっさ}にその人格を熱演できる心と{身体|からだ}とは、一体全体、どうなっているのか。
少女学年 **ツボネエ** 少循令{飛龍|ひりゅう}
{会得|えとく}、その努力に{憾|うら}みなかりしか。
**{主題と題材と動機|モチーフ}**
■□■ {主題|テーマ}
ただ与えてもらうだけの人間から、世のため人のために何かを与え続ける人間に変わるには、どうすればいいか。
□■□ その{題材|サブジェクト}
与えてもらうだけなら乞食、不幸の象徴! じゃあ、幸せになるためには、どうすればいい?
瞬時に未知の人格を創造して、咄嗟にその人格を熱演できる心と身体とは、一体全体、どうなっているのか。
□■□ この主題と題材を選んだ{動機|モーティブ}
サギッチの然修録、**{自反|じはん}**より。
「乞食 = もらってばかりいる人 =自己中心的な人 ……おれは、乞食だーァ!!」
……だとしたら、アタイも、乞食だッ!
でも、どうすればいい?
アタイの後裔記、**{格物|かくぶつ}**より。
「人の一生の中で、命運を分ける「ここ一番!」ってときは、ほんの数時間……否、ほんの数分……否、ほんの数秒という短い時間が、たったの一回だけ……たぶん、それが、現実……たぶん、そこで変われるかどうかが、アタイらミワラが目指している〈知命〉ってもんなのかもしれない」
……だとすると、ヨッコ先輩は、知命したんだねぇ?
{咄嗟|とっさ}の、あの集中力!
そして、五感も思いも考えも、すべてが足並み揃った、あの名演技の熱演!
ヨッコ先輩の頭の中って、どんな構造になってるんだろう。
そうだ。{仕来|しきた}りの旅から寺学舎に戻って来たヨッコ先輩が、言っていた。「{瞑想|めいそう}に{凝|こ}ってるのよねーぇ♪」……って。
瞑想……原始仏教……{即|すなわ}ち、禅。
{莫|まく}妄想に、{唯識|ゆいしき}……ほらまた! 唯識に、辿り着いちゃったーァ!!
**題材の{講釈|レクチャー}**
◆◇◆
与えてもらうだけなら乞食、不幸の象徴! じゃあ、幸せになるためには、どうすればいい?
アドラー先生の教えに、〈幸せを実感するための三つの条件〉ってのがある。{斯|こ}うだ。
「自分だけでなく、仲間の利益を大切にすること。受け取るよりも多く、相手に与えること。幸福になる唯一の道である」
以上! 話、終わっちゃったじゃーん♪ ……みたいな。
一応、解説!
一に、あるがままの自分を受け{容|い}れ、自分が好きだと思える……*自己受容*。
二に、友だちや仲間のことを信頼できる……*他者信頼*。
三に、自分が誰かの役に立っていると感じられる……*貢献感*。
これら三つの感覚を、{身体|からだ}に覚えさせる……{即|すなわ}ち、体得することができれば、人は必ず……幸福へと{繋|つな}がり、導かれてゆく。
ところが、ある意味、これら三つは、現実的ではない。{何故|なぜ}なら、みんな、得意なこともあれば、不得意なこともある。しかも、ものの見方や{捉|とら}え方は、一人ひとり、みんな違う。しかも、人は、いろんな環境や様々な条件下の社会で生きている。抱えている課題や悩みも、人それぞれってことだ。
……ってことは、人はみな、ちんちんバラバラーァ?! 「万人に共通するような幸せになるための方程式なんて、有りっこない!」ってことになる。それじゃあ、面白くない。何を人生の目標にして、どうなれば幸福と呼べるのか……アドラー先生は、その答えを、「共同体感覚を持つことだ」と言っている。
さて、改めて共同体感覚とは、どんな思想なのか。
一に、他者信頼……周囲の人は、自分を援助してくれる。
二に、自己信頼……自分も、仲間に貢献できる。
三に、所属感……その結果、自分の居場所がある。
これらを、簡単に*ひとこと*で言うと、「他人が、どんなことに関心があるのか……」について、感心を持つことができるかどうかということだ。これは、どんな{仕組み|メカニズム}なんだろう。それは、自分に対する執着心を、他者への関心に変えることによって、悩みから解放され、幸せを感じられるようになるというものだ。
(自分の居場所が、なくなっちゃったなァ!)って感じたんなら、真っ先に自分から、友だちや仲間に貢献できるようなことをしよう♪ ……と、いうことなんだろうけど、その際に注意しなければいけないのは、見返りや相手の感謝を求めてはいけないということだ。
他人に関心を寄せて、何か自分にできることをしてあげることで、周りの人たちが受け容れてくれて、そこに自分の居場所もでき、所属感が得られるという{訳|わけ}だ。どうやら、何かに所属しているという感覚は、人間の基本的な欲求らしい。だから、その感覚が満たされることによって、幸せを感じることができる。
どうやらこのへんのところが、「共同体感覚の仕組みの概要」と呼んでもよさそうだ。
前者として……。
自分のことや、周りの人を支配することだけを考えて、生涯、孤独な人生を歩む。
後者として……。
周りの{他人|ひと}を受け容れて、その周りの他人たちも、自分のことを受け容れてくれて、互いに、みんなが、協力し合うことができる。
前者と後者……はてさて!
アタイは、どこ{行|ゆ}く人ぞ……。
◆◇◆
瞬時に未知の人格を創造して、咄嗟にその人格を熱演できる心と身体とは、一体全体、どうなっているのか。
言わずもがな、ヨッコ先輩のことなんだけど……。
そのヨッコ先輩が学んだと思われる唯識の中で、この*心と身体*のことを、どう{説|と}いているのか。そのへんのことを書いてある書物を、読んでみた。
心の中では、〈感覚〉と〈思い〉と〈言葉〉によって、様々な影像が織りなされている。これを、唯識では、どう説いているのか。八つの識……{八識|はっしき}というのがあった。
{眼識|げんしき}、{耳識|にしき}、{鼻識|びしき}、{舌識|ぜつしき}、{身識|しんしき}、{意識|いしき}、{末那識|まなしき}、{阿頼耶識|あらやしき}の八つだ。
眼識から意識までの六つは、元々大乗仏教にあったものだ。これに、ヨーガという瞑想の実戦のような修行によって、人間の深層……思考や行動の奥深いところに働きかける二つの〈心〉の存在を、見出した。それが、末那識と阿頼耶識だ。
そこで、従前仏教の〈六識〉にこの二つの識を加えて、〈八識〉と改めたのが唯識って訳なんだけど……ここで一度、整理してみよう♪ この八識は、大きく四つに分類される。
一に、五識。
眼識、耳識、鼻識、舌識、身識……{即|すなわ}ち、五つの感覚。それぞれ、固有の対象……感覚機関を有する。
二に、意識。
二つの機能を担う。
五識と共に働いて、感覚を明瞭にする。
言葉を用いて、概念的に思考する。
三に、末那識。
人の深層に働く自我執着心。
人の表層の心が、常に{自我|エゴ}で汚れてしまっているのは、この自我執着心が原因していると説く。
四に、阿頼耶識。
一切を生み出す万能の可能性を有する、人間の根本ともいうべき〈心〉のこと。
なんか、「五感と、善悪の両面を持った心……それが、人の正体だーァ!!」……みたいな印象を覚えたアタイ。悪の心は、他人を安易に{憎|にく}む。そのとき、心の中では、どんな作業が行われた結果、この〈憎む〉という情動を生み出したのだろうか。
先ず、誰かと出合うとしよう。アタイの後裔記から例を取ると、ヨッコ&マザメの両先輩とアタイが、敵対する亜種、文明{民族|エスノ}の警備員に、遭遇する! ……みたいな場面だ。この段階では、ヨッコ先輩もマザメ先輩も、そしてアタイも、まったく同じ条件の上に立っていると言っていい。
でも、直ぐにここから、違いが表れてくる。その誰かを{捉|とら}えたのは、視覚……即ちこれが、眼識だ。ところが、この視覚……眼識というやつは、関与しただけに{止|とど}まる。
そこからは、自分の意思とは関係なく、その出会った人の影像が、心の中に映し出される。それは、見るというよりも、見せられるという感覚……なので、そこには、自分の意思ではない何か別の意思、別の力が働いていると、認めざるを得ない。
例えば、その何か別の力が、その〈憎い〉という思いに執着していうて、それを自分に判らせるために、その出会った人に対する*憎い*という思いを心の中に投影したとすれば、次にやるべきことは、心の中に映し出されたその影像に、その*憎さ*が深まるような肉づけ……即ち、色づけをしてゆくという作業だ。
ここまで徹底して執着心の為すがままに暗躍する悪しき心……それが、{所謂|いわゆる}{煩悩|ぼんのう}という{奴|やつ}だ。
この煩悩は、意識と深く関わりながら、意識と共に働く。これが、結構細かく{小癪|こしゃく}な悪さをする本陣……という訳で、その本陣のことを、〈{心所|しんじょ}〉と呼ぶそうだ。何かに{拘|こだわ}る……という情動も、この心所が、深く関わっている。
ここに、自分の意思が色づけされた結果、{本音|ほんね}というものが、心の中に設けられる。これが、末那識……人の心の中で暗躍する自我執着心のこと。その役割が、*色づけ*なのだッ!
そして{終|つい}に……言葉で、「あいつは、憎い奴だァ!」と、決めつけてしまう。この決めつけの言葉を発している心……それが、意識だ。
残るは……阿頼耶識。
実は、この阿頼耶識が、五識、意識、末那識、更には煩悩に到るまで、これらすべてを包括する心、人の根本となる〈心〉そのものなのだ。
**{自反|じはん}**
ヨッコ先輩は、アタイっくらいの歳のころ、こんなことを学んでいたのだろうか。もし、そうだとしたら、今まさに、こんな{類|たぐい}のことを本気で学ばないと、ヨッコ先輩っくらいの年頃までに知命することなんて、「とてもとても……絶対に不可能!」ってことーォ??
絶望……決定じゃん!
てか……そもそも、それ(=すぐに{諦|あきら}めてしまうアタイの悪しき心)を反省するのが、自反だったりして……(アセアセ)。
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Ver.2,Rev.11
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