MIWARA BIOGRAPHY "VIRTUE KIDS" Virtue is what a Japanized ked quite simply has, painlessly, as a birthright.

後裔記と然修録

ミワラ〈美童〉たちの日記と学習帳

然修録 第1集 No.141

#### サギッチの{然修録|141}【座学】維新こそ正に神話!【息恒循】〈二循の高〉門人学年 ####

 {会得|えとく}、その努力に{憾|うら}みなかりしか。
 少年学年 **サギッチ** 少循令{猛牛|もうぎゅう}

座学
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維新こそ正に神話!

 アマテラスやスサノオが神話なら、サイゴウドンやリョウマも、神話だと思う。そして……今ぼくらは、自らの行動を編み、何れそれは、{武童|タケラ}の誰かによって、新たなる神話とすべく{紡|つむ}がれることだろう。

 サイゴウドンやリョウマが登場する神話は、我ら{日|ひ}の{本|もと}の国の存亡を賭けた、内的な大変革の物語だ。でも、ぼくらの神話は、滅亡に瀕した人類の悪あがきの大迷走……正直、そんな感じだ。
 それを、ぼくらは、数千年後の〈日の本〉の国の子どもたちのために、数千年前の同じ子どもたちが思い考え行動した実話として、こうやって日本語で書き残している。

 ところが……だッ!
 維新を、異国の人たちに理解してもらおうと、英語で書き残した偉人が{居|い}る。マジ、スッゲーェ!……と、思う。どんなふうに、西洋人を{諭|さと}そうと試みたのだろう。有り難いことに、その日本語訳が、皇紀二六六二年に刊行されている。それを、苦労して、やっと、手に入れた。
 維新について、西洋の人びとに向けて、著者の、内村鑑三は、こんなことを書いている……と、前置きをして本題に移りたいが、そこは無論、それは但し、例の{如|ごと}く、ぼくが解釈した表現に、少々{或|ある}いは大きく様変わりしていると思う。それを承知で、是非とも巧みに行間を読んでもらいたい。

 では、その本題……。

 〈日の本〉の国は、天の意志によって、{紺碧|こんぺき}の{大海原|おおうなばら}より姿を現した。そのとき天は、〈日の本〉の国に、{斯|こ}う命じた。
 「ヒノモトよォ! 門の内に、{止|とど}まれ。{召|め}すまでは、世界と交わるなァ!」 
 我ら〈日の本〉の国は、二千余年に{亘|わた}り、この命を守り続けた。それが{故|ゆえ}に、〈日の本〉の海を、外国の艦隊が波を切って進むことも無かったし、また、国土の沿岸が、外国から{脅|おびや}かされるというようなことも無かった。

 この事実を知れば、「長く国を閉ざしおってぇ!」などと非難することが、まったく無知で無責任な道理を外れた批判であるということを、{容易|たやす}く明白に理解することができるだろう。
 〈日の本〉が国を閉ざしたのは、天命である。それは、我が国にとっては勿論、世界の国々にとっても良かったことであり、それは真実であって、今も今後の未来も、その真実が変わることはない。
 我々の国は、世界の中心を{為|な}すことを天命であるかのように誇っている西洋から、遠く離れている。そのことは、一つの国にとって、必ずしも不幸であるとは言い切れない。それがたとえ、西洋が発信した{所謂|いわゆる}文明開化に浴する段に及んだとて、幼い我が子を好んで国の外に放り出すような親は{居|い}まい。

 逆に、西洋と近しく{且|か}つ親しくしていた例えばインドなどの国は、{易々|やすやす}と西洋の利己主義の{餌食|えじき}となり、ほぼ丸呑みにされてしまった。
 それは、インドに始まったことではない。ゲルマンに端を発する西洋のアングラやザクセンの狩猟民族たちは、平和なインカ帝国アステカ帝国に、一体全体何が{障|さわ}って……実際、何をしくさってくれたのだろうかッ!
 我が国が、鎖国を避難されて……もし早々に、その門戸を開こうものなら、矢庭!途端!に、インド支配の地固めをしたクライブとか、アステカ帝国を亡ぼしたコルテスのような利発勇猛な軍人が、容赦なく襲い掛かって来ていただろう。

 戸締り厳重な家に押し入る{企|くわだ}てをしている強盗は、そんな、門戸が自ら開かれるような好機を、{虎視眈々|こしたんたん}と狙っているものなのだ。

息恒循
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〈二循の高〉門人学年

(第二版 改訂一号)

 生涯、{則|すなわ}ち{天命|てんめい}。その最初の重要期を{立命期|りつめいき}と言い、その立命期の後半の循である七歳から十三歳までの七年間を、{少循令|しょうじゅんれい}と言う。

 その少循令の高等学年を、「門人学年」と言う。

 「門人学年」とは、何を学ぶ歳なりや……。

 本物の学問とは……。

 その「本物の学問」というものが、人間を変える?
 {然|さ}れば人間は、己を変えることができる?
 それを可能にするのが、真の「学」というものである。

 本当の学問とは、何か。
 それは、真理と実践が一致したときに、初めて己の血肉と成り得る。求道する心と修行する肉体は、生涯、離れるべからざるものなのだ。単なる知識の記憶や技術の修得は、学問でもなければ、教育でもない。{敢|あ}えて名付ければ、「{知識や読書の師|レーゼ・マイスター}」と言うそうだ。
 大切なのは、「{徳性の師|レーベ・マイスター}」のほうだ。この徳性の師に学ぶ以外に、世の中や人類全体は{疎|おろ}か、己ただ一人とて救うことは困難……ズバリ!申し上げれば、不可能である。
 {然|しか}しながら、我々は、幸いにして、書の中で、先哲と交わることが可能である。書の中で息{衝|づ}く先人{先達|せんだつ}は、単なる知識や技術的な手段のような{類|たぐい}ではなく、既に先哲自ら実証されて{居|お}る個々の人格を表してくれているものであり、それらと交えることによって、真の学問を為すことができるのである。

 人間の本質とは……。

 本質……{則|すなわ}ち、核心にあるもの……それは、徳性である。
 知識は勿論のこと、知性も知能も技能も、本質に付属するオマケのようなものに過ぎない。オマケは、もう一つある。習慣だ。
 たとえどんなに多くの知識を持ち、知性や知能や技能や習慣が{優|すぐ}れていたとしても、「偉人」と称されることはない。
 {何故|なぜ}かァ?
 なるほど……確かに、知性や知能や技能や習慣が、人類の文明や文化を創り上げてきた。それは紛れもない事実だ。だのに何故、何れも本質とは言えないのか。それは、知性も知能も技能も習慣も、人間の本質的な要素ではないからだ。
 人間の本質とは、「それ」がなければ人間ではなくなってしまう大事な{物|ブツ}のことである。その「それ」が、徳性なのだ。
 具体的には、愛すること、{報|むく}いること、助けること、奉仕すること、{廉潔|れんけつ}、勤勉……そして、素直な喜怒哀楽も、徳性と成り得るだろう。そういうものが{相俟|あいま}って、一つの徳性を為すのだ。そんな本質を持っているからこそ、知能や技能というものが生きて、世のため人のためとなり得るのである。

_/_/_/_/ 『然修録』 第1集 _/_/_/_/
寺学舎 美童(ミワラ) ムロー学級8名

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未来の子どもたちのために、
成功するための神話を残したい……
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 東亜学纂学級文庫★くまもと合志
 東亜学纂★ひろしま福山