EF ^^/ 後裔記 第2集 第16回
一、想夏 …… 立命期、最後の一年 (6)
怪奇な古ぼけた家、ここは、もうどれくらい生きものが住んでいないのだろうか。
エセラは一人、古屋の裏側に廻り、勝手口の前で立ち止まった。
ここから入れば、どの方角からも、背中の曲がった老人に見{咎|とが}められることはない。
空き家とは言え不法侵入、当然エセラには、後ろめたさがあった。
この古屋に関して、一つの{噂話|うわさばなし}が残っている。
一人の美しい女が、村人たちから顔を焼かれた。
堅実で働き者だった{良人|おっと}は、正気を失い、その村人たちを一人残らず{銛|もり}で突き殺してしまった。
皆殺しを果たした瞬間、良人は一瞬、正気を取り戻しかけたが、仲間の村人たちを助けようとした若い青年に{槍|やり}で背中をひと突きされ、そのまま息絶えた。
焼け{爛|ただ}れた顔の痛みに堪えていた妻は、良人の死を知ると、大きな石を腹に抱き抱えたまま漁具のロープで括りつけ、良人が大事にしていた漁に使う手漕ぎ舟から身を投げてしまった。
その直後、夕闇迫る港の広場に、その女がよく使っていた{朱色|あけいろ}のマントを頭からすっぽりと被った少女が、村人たちの前に姿を現した。
焼け爛れた醜い顔で良人も殺され死を選んだ女には、母親譲りの美しい一人娘がいた。
少女は、その美しい顔を隠したまま、一言も残さず、一人村を後にした。
背中を丸めた老人たちは、あたかも現代に生きる隣人の出来事であるかのように、この三人の親子の悲劇を物語った。
父は、仕事に堅実なだけでなく、娘の教育から服装に到るまで、母親も及ばぬほど細かいところまで神経を{遣|つか}っていた。
だが、一つ。
そこには、言い知れぬ何かが欠けていた。
なんの感情も持たず、必要なことにだけ敏感で、不必要なことには一切無関心で居られたのだ。
そんな家人に{處|しょ}しては、一種{所謂|いわゆる}{英邁|えいまい}な気性に己を変えざるを得なかった。
この営みが、村人たちの言葉で言えば、「ひり」を招いた。
村八分、仲間外れ、集団による阻害、迫害、加えて娘に対しては、「ひりじゃひりじゃ、おまえはひりじゃけぇ」と、いじめを引き起こした。
古風な漁村の生真面目な漁師に嫁ぐくらいである。
焼けただれた顔で{生業|なりわい}の海に身を投げた女も、嫁いだ当時は、まさに天真爛漫を絵に描いたような{生娘|きむすめ}だった。
その後、男を知った生娘は、周りの嫁仲間たちに、こんな言葉を洩らしている。
「どの時代に生きたって、青春を妨げるものは、外ばかりにあるように見えて、本当は、自分の心の中にあるのよ。
だから、青春を妨げる外の障害物が多ければ多いほど、心の中の障害物の出番が減って、{却|かえ}って生き易くなるってもんさ」
朱色のマントに身を{包|くる}んで消えてしまった少女は、そんな父母の気丈にして異質で、しかも血の通わないような冷徹さと血潮が噴き出るような情熱の狭間で、その人格のほぼすべてが育まれていった。
娘の心は、無敵の氷だった。
父に水を浴びせられようと、母の炎に包まれようと、一切溶けることはなかった。
水晶のように硬く、岩石のように{頑|かたく}なであり続けようと、心に誓った。
そんなある日、水も炎も失った。
そして、自ら空恐ろしい水となり炎となり、それを悟られぬようにマントを{纏|まと}い、村から完全にその実像を消してしまったのだった。
村人たちは、今でも口々に言う。
「あの{娘|こ}は、ぜっぴ帰って来るけぇ言うて、この村のみんながそう言ようたそうじゃ。
この村が、ほんまに好きじゃったんじゃろうて。
ほんまは、この村から一歩も出とらんのかもしれん。
ずっと、あの娘の家に居るんよォ。
今でもぜっぴ、{居|お}るわいねぇ。
あの家ん中に……」
エセラたち{美童|ミワラ}は、みんな知っていた。
知っていたというより、みんなが同じ生命の存在を感じて、暗黙のうちに事実として共有していたのだ。
2024.3.31 配信
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発行 Ethno Fantasy 東亜学纂